2021年4月 第114話

朝事*住職の法話

つみの自覚と宗教的真理」
     
 住職法話をお読み頂き、有難うございます。
 今月は、主に、井上善右衛門師の本より、仏縁を頂きたいと思っております。
 やはり、先輩方のご法話からは教えられるものが随分と多くございますね。
 それを引用するということは、皆様にも、是非紹介したいという強い気持ちもございます。
 又、私自身の表現では、上手く伝えられないところを、先輩の方の深い洞察と、味わい深い文章を通して表現させて頂くという意味もあります。
 又、当然のことながら、引用させて頂きながら、一番に、他人ではなく、私自身が味わわせて頂くという意味もございます。
 先輩方の本を読んで、思いますことは、浄土真宗のみ教えは奥が深いなあー、もっと学ばせて頂かなければならないなあーということですね。
 そういう先徳方が懸命にお伝えて下さいましたお念仏のみ教えを、大切にさせて頂かなければと思う次第です。
 その為には、先ず、私自身が味わい、絶やさないように伝えて頂かなければと思うとともに、私には、何の力もございませんが、せめて、 この法の灯火の邪魔をしないようにしたいと思っている次第です。
 「師は糸の如く、弟子は針の如く」という言葉の如く、師が本当に伝えたかった教えの真髄は何なのか!
 本当に伝えたかったことを、間違いなく聞き受けさせて頂かなければ、真に聞いたことにはならないと思う次第です。
 ある学僧の母親は、加賀門徒と言われる、有難いご門徒で、「聞き開かしてもらいなさいよ。」とよく言われていたそうです。
 ご縁があって浄土真宗のみ教えを聞かせて頂いているのですから、共に聞き開かせて頂きたいものでございます。

 「大いなる光といのち」(井上善右衛門 著 百華苑刊) より ご縁を頂きます。共々に味わわせて頂きましょう。
 
 「宗教の自由ということは憲法にうたわれている重要な個条であることはご承知の通りですが、自由ということはどういうことでしょうか。
 持つも持たぬも勝手というような意味でしょうか。
 そういうふうに宗教の自由ということを理解している人がなきにしもあらずだと思います。
 けれども、根本的に宗教というのは、その人の自発的な精神を根幹とするのでなければ成り立たないものである。
 おしつけによって宗教というものは成り立つものでもなければ、また宗教としてありうるためには、先ず私どもは何人も自由の場に立たねばならぬ。
 自由という言葉が非常に広いものですから、各自の勝手というように自由を考えている現代人もかなり多いようですが、宗教の自由とはそんな自由ではありません。
 人間が自らの中から自発的に求めていかざるをえないような真実、そういう真実に対面していく道こそ、いま言われておる宗教の自由という。
 そういう意味でなければならないと思います。
 しかし、今日宗教の自由ということはかなり混乱した理解がされておりますので、 その点は私どもとしてよく反省しておかなければならない問題の一つだと思うのです。
 さて、では私どもはどのような立場に先ず我が身をおくべきかということです。
 その第一といたしまして、私は自己の自己たるところに先ず立ちかえるということ、これが第一歩となるべき聞法の姿勢というものであると思います。
 明治の先覚者である清沢満之師が、「宗教の基本は自己を問い直すことから始まる。」と言っておられますが、間違いのない言葉だと思います。
 宗教の基本は、自己を問い直すことから始まる。
 自己を問い直すことなしに法を聞くということは、先程申しましたように法を物語としてしまう。
 そういう脱線を犯す第一歩をなすものだと言ってもよいと思います。

 法を聞くとは
そうなってまいりますと、仏法を聞くということは、決して、その人の趣味や興味のような感覚で聞くべきものではない。
 もし、趣味のようなものでありましたら、興味のある人だけが聞いておればよい。
 みなさんのご家庭でもそうした思いはございませんか。
 うちの爺さんはよくお寺へ話を聞きに行くけれども、あれは好きでお寺に行っている。
 自分にはなんの関係もないと。そういう若い方はおられませんか。
 だから一緒に行こうと言っても、自分には関係ないのだから行く気はない。
 興味と申していいのか、好みと申していいのか、もっと言葉を換えましたら遊びに行っている。
 そういうように感じ取られているということは、根本的に宗教的真実を聞くという道からはずれたところに立っていると申してよいと思うのです。
 ですから、仏法を聞くということは、先ず私ども人のひとりが人間としての己れに立ちかえり、そして、自己の自己たるところに立ち帰ってみますと、 自分の中には悲しいことに、あるものはただ闇だけ、そして降りまわされている自分だけを見出すでしょう。
 なんという淋しいことであろう。
 今こそ真実の光をこの私の命に見出さねばならんという、そういうことになってきます。
 法を聞くということは、人間が人間になろうとする限り、ひとつのやむにやまれぬ必然性を持った問題だと思います。
 そうならねば済まされない一すじの道が私どもに与えられてくる。
 それが人間と生まれてまいりました本当の意味ではございませんか。
 動物はそんなことは思いません。尋ねてみないからわかりませんけれど、おそらく犬には問題ではないと思います。
 ところが有難いことに、人間として生まれてきました私どもには、「汝自身を知れ」という言葉が胸に響きます。
 それを感動をもって、聞かずにおれないものが与えられております。

 それが仏教で広く申します菩提心ということの始めです。
 これはむずかしい言葉ですけれども、菩提心というのは目覚めずにおれない心と申してよろしいでしょう。
 親鸞聖人は浄土の菩提心とおっしゃった。
 浄土に帰せしめられる心でございます。
 夢、幻の世界ではない真実の国を浄土と申します。
 その真実の国に往く身とならしめられる心、それが浄土の菩提心であると明らかにお示しになっております。
 堺に、ご承知かと思いますが、吉兵衛さんという妙好人がおられました。
 その吉兵衛さんが腰に弁当を下げて、いかなる所をも遠しとせずに、良き師がおいでになると聞くと訪ねて、自分の心中を訴えた。
 そのころの吉兵衛さんの常の言葉が、「私は死んでゆけませぬ」という言葉であったということです。
 死ぬも死なないも、死ぬ時がくれば人間は死ぬ。
 けれども、「死んでゆけませぬ」というのはどういう意味でしょうか。
 私にいやおうなしにおとずれる死というものを、この私は立派に受けとることができないというのです。
 避けることのできないものを、ただ逃げ回るよりほかないようなこの私の胸の内なんです。
 いったい、それをどうすればよいのですかと、こういう問題をかかげて聞法の道を辿られたのです。
 これはやはり今まで申してまいりましたように、この命を無常ということにぶっつけて、法を聞かれたのです。
 それがすなわち金子大栄先生がおっしゃった、「法は身をもって聞く」ということだと思います。
 決して頭で理解することではない。
 私の命の根本問題の解決にかかわる事なのです。
 命の問題と申しますと、いろいろ出てまいります。
 何のために生きているのか。
 生き甲斐とは何なのか。
 これは特に若い人には深刻な問題と申してよいと思います。
 捨ておけない問題でありましょう。
 あるいは、この私の胸の内の醜さ、大きな顔しておりますけれど、自分の胸の内を振りかえってみると 実に自分ながらにも嫌になるような、そうい汚いものがどくろを巻いている。
 そういうわが心をどうすればよいのか。

 そこには、次から次へと聞き進まねば済まされない問題が出てまいると申してよかろうと思いますが、そうした問題に、お話を進める余裕がございませんので、 先ずこの度は皆さんとご一緒に、法を聞く根本の踏み出しはどこにあるのかという問題点について、共々に振りかえらせていただいた事に止めます。」
 「大いなる光といのち」(井上善右衛門 著 百華苑刊) より

 この井上善右衛門師の言葉から、「無常」ということ、「自己を問い直す」ということとが、真剣な宗教の根本的な事柄であるということが教えられました。
 ここに「あるいは、この私の胸の内の醜さ、大きな顔しておりますけれど、自分の胸の内を振りかえってみると 実に自分ながらにも嫌になるような、そうい汚いものがどくろを巻いている。
 そういうわが心をどうすればよいのか。」とございます。
 こういう掛け値の無い自己の姿を問題にしないで、ただ教えを聞いて行っても、本当の私自身の救いというものになっていかないのではないかと思う次第です。
 蓮如上人も「信心を頂いたら、もうあなたは罪は造らないのですか?
 死ぬまで罪は造り通しではないですか!」と鋭く問題提起をされています。
 死ぬまで低下ていげの凡夫のままではないでしょうか。
 毎日毎日、罪ばかり造り続けている、この私が救われる道を聞いて行かなければならないのだと、改めて思う次第です。
 先徳の法語に「世の中に 難しいものが ただ一つ 己の 阿呆あほうと 仏の尊さ」
 という言葉を聞いたことがあります。
 私自身が 阿呆あほうであると気づかされることと、 仏様が尊いと、仏様の尊さを知ることが、「ただ一つ」のことであると言われています。
 「己れの阿呆」と「仏の尊さ」が「ただ一つ」であると言われているのです。
 己れが阿呆だと気づくことは、とても難しい事です。
 それが仏の尊さの中で、仏様に照らされ見えて来ることではないでしょうか。

 続いて、「大いなる光といのち」(井上善右衛門 著 百華苑刊) より ご縁を頂きます。
 
 「先ず初めに私共人間と生まれまして最も尊い事は何でございましょうか。
 私共はこの からだとしての自己を己れの全てと決め込みまして、そしてその体に閉ざされた中で 起こってまいります人間のいろんな本能的欲望であるとか、或いは感覚的快苦であるとか、そういうものに、浮き沈みつしながら一生を送るのが人間の常でございます。
 しかしそういう生活をふりかえって見ますと何処に本当に尊いと言いうるものがあるでありましょうか。
 人間の尊重とか、人権とかいう言葉は現代人常に口にする処でございますけれども、果たして人間と生まれて本当の意味で尊いと言いうるものは何であろうか。
 この事は深く省みてみなければならぬ大切な問題であると思います。
 唯今申しました様に私共の常識は体としての自己に立脚しているのですが、単なる身体的人間というものは、 無明と業と煩悩との流れに押し流されておるものであります。
 無明と申しますのは判り易く申しますと、本当の真実が判らぬ闇という事です。
 そういう無明の存在して生きているのですが、その事を私共は自らに感じてはいません。
 そういう無明というものの中から、我執というものが生じる。
 我執とはあるべからざる己れの幻覚に執われるということです。
 そして俺が俺がと思いつづける。
 だから人間は自己中心的にならざるをえない。
 さらにまたその我執というものに基いて種々の煩悩が生じる。
 煩悩というのはよくお聞きの言葉かと思いますが、原語はklesaという言葉でございます。これを中国の学者が煩悩と 翻訳ほんやくしたのは非常に巧みな訳だと思います。
 煩という字はワズラワス、悩というのはヤナマスという字ですが、これを、判りやすく申しますと、みずからより出て自らを さいなみ苦しめるような妄情と申してよろしいかと思います。
 その煩悩という事について、私共が自らをその煩悩ということに即して振りかえってみますと、それが法を聞かずにおれぬ大きな手掛かりになって参るのです。

 この私には物欲や愛欲をはじめと致しまして名の欲、地位の欲、あらゆる欲望というものが・・・・起こって来る 「いや、私はそんな貪欲という様な、度をはずれた欲望は持っていない」という風に仰っしゃる方があるかも判りません。
 けれども、これは私共よく考えてみるべき事です。・・・
 それから皆さん、これもご承知の 「いかり心」というものですが、振り返ってみますと私共には自己中心の心があって、その心に 相反するものに対して感情的な拒否反応を起こす。
 それが昂じて いかりとなって勃発する。
 私もいろいろな時にいろいろなお粗末な瞋りを起こしたことが今まで限りなくございます。
 ふり返って見まして、皆様の上では如何か存じませんが、私自身の上では十中八九は後に後悔の種になる。
 おこらねば良かったにと思う。
 そういう事を思いますと、怒るべき時には怒らねばならぬという事も、これは道理ではありますけれども、私共の一般的な 生活の中に潜み動いております瞋りの底には、唯今申しますように自己中心の我執というものが、根深く潜んでおることも事実です。
 自分の思いに添わぬもの、逆らうものに対して瞋恚(しんに)の心が起こるという事は人間として、自分には無関係だといいうる人はないのではありませんか。
 或いはまた愚痴という事、これも総ての人が経験していることですが、意味のない繰り言でございます。
 それを思うて何とかなるなら意味もありましょうけれど、いうて意味のない 愚痴ぐちを私共は胸に抱いている。
 愚痴というのは愚も痴も共におろかという字ですが確かにそうです。
 グチグチ思えば思うだけ自分の胸を攻め苦しめる。
 思うほど苦しいのです。
 そしてそこには、いささかも前向きの姿勢は生じてこない。
 ただ自分が自分自らを苦しめているだけである。
 こういう心を私共が持っていることも否定できない事実です。

 その背後に先に申しますように真実が見えない「無明」というものがある。
 それに基いて自己中心の我執が起こり、我執を中心として私共は業をつくる。・・・
 で、仏法というのは真実を聴く教えであります。
 私共は真実に帰らねばならぬ。
 平和の問題に致しましても、平和の根本は世界の全人類が真実に帰るということです。
 その軌道を脱して、いくら組織を作ってみても、議論を交えてみても、本当の平和というものは訪れないのではございませんか。
 私共にとりまして真実より尊いものはない。
 真実より確かなものはない。
 真実より力強いものはない。
 この事は決して忘れてはならないことだと存じます。
 ところが私共はその真実を何処かに忘れ去って、人間が勝手に作り出した世界の中に自己を閉じ込め 自分の描いた世界を全てである様に思い込んでおるのです。
 ドイツの文豪ゲーテが『ファウスト』と言う詩で書きました劇の中に「人間というものは馬鹿げた、ちっぽけな世界に住みながら、それをあたかも全体であるかの様に 思い込んでおる愚かな奴だ」と、まあ、こんな言葉で悪魔が嘲っている場面がございます。
 確かに人間というものはそうだと言わざるをえません。
 そういうところに人間の根本的な無明というものがあり、そして煩悩と、業との流れを私共は抜け出しえない 存在となっているのです。
 
 今日の世界の情勢を私共見聞しますについても、何か人類全体の業というものを感ぜずにおられません。
 そういうものを抜本的に超えて行く道が全世界に開かれて参らぬ限りは、人類の将来というものは決して楽観出来ないと思います。
 何故かといいますと、今申します惑える業というものの中には自己矛盾が潜んでおるからです。
 例えば私が自己中心的であれば他人も必ず自己中心的になる。
 そうなると必ずやそこに衝突が起こる。衝突が起これば争いが起こる。
 争いが起こればお互いに苦しむでしょう。
 そういう必然の出来事が繰り返されて行くのでありまして、世界に向かって私共の今日大きく叫ばねばならぬ事は、 人類が人類の背負うておるその業というものに気付いて、そしてその迷いを超える道を自覚して行かねばならぬという事です。
 いや人類の未来といわずとも、私共一人一人の生活をふりかえって見ても、此の事は私共が何とかしなければならない問題ではございませんか。
 只今申す様に私共人間は執我に閉ざされた世界の中に生きておるのでございますが、ところが私共人間にとりまして可能なただ一つの事は、法を聴くことが出来る という事です。
 私はそう申してよいと思います。
 法を聴くことが出来るという事は、真実をきくことが出来るという事です。
 それは即ち、真実に出会う可能性を人間というものは与えられているという事であります。
 私共は閉ざされた世界におりますけれども真実の世界は決して閉ざされてはおりません。
 開かれております。
 開かれておるという事とはどういう事であるかといえば、永遠の真実がこの私共の閉ざされた世界の中に浸透し来たって、そして私共の闇を破る大いなる活動を やめないということであり、私共はその働きを此の身に確かと受けとることが出来るということです。
 この有難い可能性を人間が持っておるという事は、何としても忘るべからざる事です。
 人間は閉ざされており、真実は開かれておると、こういう風に申しましたが、閉ざされておる世界から本当の世界は見えません。
  
 私共がその閉ざされた世界の中でどれ程思考を たくましうしましても、真実の世界に私共の心の手は届くものではございません。
 ところがこれは親鸞聖人のお言葉を借りまして申しますならば「一如宝海より形をあらはして法蔵菩薩となのりたまいて 無碍の誓いをおこしたまふをたねとして阿弥陀仏となりたまうが故に 報身如来ほうじんにょらいとまふすなり。
 これを  尽十方無碍光仏じんじっぽうむげこうぶつとなづけたてまつれるなり。」
 こういうお言葉が『一念多念証文』に出ております。
 或はまた「形をあらはし御名を示して衆生に知らしめ給ふ、即ち阿弥陀仏なり」と、こういうお言葉を以て 聖人はその大いなる真実の世界が私共の上に働きかけて来ておられることを語られています。

 私共は言葉というものをもっております。
 それが人間の特徴です。
 だから言葉をとおしませんと私共には通いの道が開けません。
 その言葉に結晶した仏心が南無阿弥陀仏であります。 
 その南無阿弥陀仏は私共への び声であり、その御名によって私共に真実を送りとどけて下さるのです。
 「名を示し、形をあらわして」という事は真実そのものにして為しうる働きです。
 『法華経』の普門品に「十方諸国土・無刹不現身」とあります。
 訓読すると「十方の諸国土に身を現ぜざる くになし」ということになりますが、あらゆる処であらゆる人々に応じて、真実者が呼びかけ到りとどこうとして 働きつづけているいうことでありましょう。
 それが即ち先程申しました私共は閉ざされているけれども、その私共に許された唯一つの事は、法を聴くことができる、如来の呼び声を此の身に 受けとらせて頂くことが出来るということです。
  
 そういう大いなる働きの道を通じて仏の世界、真理の世界とこの私が通うことの出来る身の上に成らしめられることは、最初に申しました人間にとって、 人間と生れた私共において、最も尊い事だと思うのです。
 御承知の山陰の温泉津の才市さんのうたに、こういうのがございます。

 仏の心は不思議なものよ
 目には見えねど話しができる
 仏と話しをするときは
 称名念仏これが話しよ
 
 才市さんのような本当に仏の世界と通われた方にして、始めて言いうる詩ではございませんか。
 「仏と話をする時は称名念仏」とありますが、これは南無阿弥陀仏と読み替えて 宜敷よろしうございましょう。
 「南無阿弥陀仏これが話よ」南無阿弥陀仏の念仏は才市さんと仏との話し合いであったのです。
 信心と申しますと、仏様のお慈悲をきかせて頂いてありがたいと思うという程度に、私共は感じておることが常ですけれども、その南無阿弥陀仏という事は、 その中に仏の真実の徳そのものが宿し込められておる。
 それを 親鸞聖人しんらんしょうにんは『教行信証』の行の巻に 「真如一実の功徳宝海なり」と申されております。
 ここに真如とは、永遠の真実そのものという事です。
 その永遠の真実そのものの光と命が って南無阿弥陀仏となり、私どものためにここに成就されておると申されておるのです。
 「真如一実の功徳宝海」と申されたのは、その南無阿弥陀仏を私共が本当に頂戴いたします時に、真如の徳に通わせていただく身の上になるということが其処に はっきり示されていると申してよいと思います。
 
 この私が南無阿弥陀仏を通してその徳に通わせて頂くそのよろこびの趣が取りもなおさず念仏であります。
 一般に何か報謝の念仏ということが余り型にはまりすぎている嫌いがあるように思います。
 無論、才市さんがお念仏して仏と話し合われるということは、仏のみ心の有難さをば心の底から感謝し喜んでおられる、喜んでおられるという事は 此れは報謝という事にほかなりませんから、報謝の思いの必ず宿ることは間違いありませんけれども、しかし念仏の世界というものはただの報謝ではない、もっと躍動した 真実そのものと私との命が交流する、そういう世界の実感と申さねばならぬのではないかと思います。
 いま才市さんは非常に素朴単純な言葉で仏と己れとのおほけない通いの喜びを詠うておられますが、御承知の方もあるかと思いますが今日の京都女子大学のはじめを 開かれました甲斐和里という先生、足利義山和上の末娘さんで、九十六歳でお亡りになりましたが、立派な和歌を沢山遺して下さいまして、私共を今日唯今も 育てて下さっているのですが、その有難い短歌の中に「み仏を呼ぶわが声はみ仏の われを呼びますみ声なりけり」という一首があります。
 言葉はちがいますけれども、才市さんの今の素朴純真な歌と、その底に流れている真実なる世界に通う心情は、全く一つであることが思われます。
 また或る人の歌でございますが、
 「今ははや語らんとして言葉なし み名を称えて呼びつ応えつ」
 という、こんな歌もございます。
 矢張り私共にそういう命の世界が開かれて参りませんと、浄土真宗の信心は本当に生きたものになって参らないのではございませんか。
 「大いなる光といのち」(井上善右衛門 著 百華苑刊) より

 この中に、「私共は言葉というものをもっております。
 それが人間の特徴です。
 だから言葉をとおしませんと私共には通いの道が開けません。
 その言葉に結晶した仏心が南無阿弥陀仏であります。 
 その南無阿弥陀仏は私共への び声であり、その御名によって私共に真実を送りとどけて下さるのです。
 『名を示し、形をあらわして』という事は真実そのものにして為しうる働きです。」とございます。
 言葉の世界に住んでいるので、言葉を通して真実を伝えていくということなのでしょう。
 仏教の学問も、そういう意味で、真実を伝えるご縁ですね。
 世の中には、熱心に、仏教の勉強されている方もおられます。
 私は中々真似できないですが、敬意を表する次第です。
 又、感応道交という言葉がありますが、人それぞれで、感応道交のご縁も、実に様々なのでしょう。
 「こうでなければならない。」と、断定的には言えない面があるという事でしょうね。
 
 この中で、「人間は閉ざされており、真実は開かれておる」という言葉がございます。
 また、『ドイツの文豪ゲーテが『ファウスト』と言う詩で書きました劇の中に「人間というものは馬鹿げた、ちっぽけな世界に住みながら、それをあたかも全体であるかの様に 思い込んでおる愚かな奴だ」と、まあ、こんな言葉で悪魔が嘲っている。』とございました。
 そんな狭い世界の中に、自分が居て気づかない。
 狭い世界、それが閉ざされているということなのでしょう。
 そんな狭い世界の中に居ても、法を聴くことが出来る。
 それは、真実をきくことが出来るという事なんだと指摘されています。
 「真実に出会う可能性を人間というものは与えられているという事であります。
 私共は閉ざされた世界におりますけれども真実の世界は決して閉ざされてはおりません。
 開かれております。
 開かれておるという事とはどういう事であるかといえば、永遠の真実がこの私共の閉ざされた世界の中に浸透し来たって、そして私共の闇を破る大いなる活動を やめないということであり、私共はその働きを此の身に確かと受けとることが出来るということです。
 この有難い可能性を人間が持っておるという事は、何としても忘るべからざる事です。」
 と言われています。
 閉ざされた世界の中で、法を聴くことが、真実の世界に通じる貴重なるご縁であるということでしょうか?
 真実の世界からの大いなる働きに目覚めるということでしょうか?
 ここに一つ大きな問題があると思います。
 それは、人間は閉ざされた狭い世界に住んでいながら、広い仏様の世界を中々信じられないということです。
 親鸞聖人の御和讃に次のようなものがございます。

 「不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり」
 「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三寶にはなれたてまつる」

 せっかく仏様が真実の世界から私の閉ざされた世界に働いて下さっているのに、自分のはからいにとらわれて、疑いの世界に閉じこもっているわけですね。
 「いくら阿弥陀さまがお慈悲の方でも、こんな浅ましい心が起こってばかりのお粗末な私の根性では、阿弥陀さまも救って下さらないのではないのか?」
 そんな疑い、つまり閉ざされた狭い世界に、あくまでとらわれて、広い世界からの呼びかけに耳を傾けようとしない頑なな態度ということです。
 頑固で、いくら人が言って下さっても、人の言うことを聞かない人ということになるのでしょうか?
 親鸞聖人は、信罪の自力心ということを言われています。「信罪福心」と言われています。
 この 信罪福心しんざいふくしんということは、 信罪しんざい信福しんふくの二つの自力心のことです。
 「信罪しんざい」とは、罪を信ずる。
 罪の恐ろしさを知らされることです。
 「こんなに浅ましい心が起こってばかりでは、いくら阿弥陀様でも救われないで、愛想尽かされるのではないのか?」と心配する心のことです。
 こういう人を 信罪しんざいの自力心の人と言います。
 ある先生は「阿弥陀さまより自分がえらく成っている天狗。
 阿弥陀さまの救いの力・ご本願と、私の煩悩と 相撲すもう取ったら、私の煩悩の方が勝つと思っている人」 と指摘されています。
 迷っている人に、印象付けたい、忘れられないように、少しどぎつい言い方をされたそうです。
 禅味のある言い方ですね。
 特に今の世の中は、文章化すると問題化することもありますし、慎重さが不可欠です。
 自戒しなければならないことです。
 しかし、反面会話の良さは、会話では、こういう言い方が出来るということがありますよね。
 その根本に、慈悲心がなければならないということでしょう。

 自分が阿弥陀様よりえらく成っているのですね。
 信福しんふくとは、この福というのは、善の意味の広いものです。 
 「何かいいこと」といえるぐらいのことを、仏教では福と言うそうです。
 自分のやった事や、あるいは心持によって、「自分は、こうなったから、これで大丈夫」という思いを 信福しんふくの自力心と言います。
   
 仏様だけの救いの働きだけでは不足で、それに何か自分でプラスして行こうとする計らいの心ということですね。
 救いに役に立たないものを、役に立てようとする心ではないでしょうか。
 仏様の働き一つというような純粋な態度ではないのですね。
 「世の中に 難しいものが ただ一つ 己の 阿呆あほうと 仏の尊さ」
 
 私自身が 阿呆あほうであると気づかされることと、 仏様が尊いと、仏様の尊さを知ることが、「ただ一つ」のことであると言われています。
 「己れの阿呆」と「仏の尊さ」が「ただ一つ」であると言われているのです。
 罪の深さがわかればわかるほど、「かかる者をお助け」と味わう。
 それを才市さんは「こりゃ阿弥陀、たすけたいならたすけましょう、罪はわたさぬ、喜びの種」と言われています。
 「罪」はいつも「仏様の尊さ」と「一つのこと」だから、「こんな者もお助けとは・・・」と、かえって自分の悪さを知らせて頂くことが、 仏様の救いを味わうご縁となっています。
 それを、 信罪しんざいでは、「こんなことでは、いくら阿弥陀様でも、救われないで、愛想を尽かされるのではないのか?」 と、自分の罪悪を嘆くのです。
 ある先生は、「これは、阿弥陀様より自分がえらいと思っているのです。」と指摘されています。
 明治の先覚者である清沢満之師が、「宗教の基本は自己を問い直すことから始まる。」と言っておられます。
 自己を離れて仏法を聞くということは、仏法聞く態度ではないということでしょう。
 しかし、信罪しんざいの「こんなことでは、いくら阿弥陀様でも、救われないで、愛想を尽かされるのではないのか?」 という態度は、阿弥陀如来のご本願を馬鹿にしていることになるのですね。
 よくよくご本願の意味を、お心を、聞いてこなかったということになるのでしょう。
 こうなると、仏法を聞くということも中々大変なことですね。
 継続して仏法を聞いていくことの大切さを思わされます。
 「仏意ぶついうかがう」
 というこころで聞きたいものです。
 「歎異抄たんにしょう」の中に、 「弥陀みだいかばかりの力ましますとしりてか、 罪業ざいごうの身なればすくわれがたしとおもふべき」という言葉がございます。 
 「阿弥陀様あみださま願力がんりきは どれくらいだと思って、 つみの深い私が救われないかも知れないなどと、そんなことを思っていいのか?」
 そういうことが指摘されている言葉ですね。
 曇鸞大師どんらんだいしという高僧は、私の 煩悩ぼんのうと如来さまのご本願のことを「光と闇」だと言われています。
 光と闇だと、勝ち負けは決まっている。
 千年続いた闇でも、光が来たら明るくなります。
 これでは 相撲すもうになりません。
  
 法蔵菩薩ほうぞうぼさつ五劫ごこうの間、ご苦労下さったのは、何のためかと言えば、 凡夫ぼんぶ煩悩ぼんのうを持ったままで助けてやるということを、成就するためのご苦労でありました。
 そういう意味から言えば南無阿弥陀仏が成就された、ご本願が成就されたということは、私の煩悩が問題にならなくなったということではないでしょうか。
 教説がこういう言い方で説かれているということは、「何とかして阿弥陀様の救いに気付いてほしい。」という慈悲心の顕れではないでしょうか。
 「わたしのような おろかものを 親さまなればこそ よう呼んで下されたことよ」
 ある先徳の言葉に次のようにありました。
 「救いは現前の事実なり。
 南無阿弥陀仏の 大綱おおづなに引かれ引かれて、今、 地獄じごくから引き出して もらうだけのことや。 
 何もない、何もない。
 不思議、不思議。
 お浄土参りに 仲人なこうどを入れるなよ。 
 仲人なこうどとは 脳味噌のうみその働きを う。
 仏さまは不思議、不思議。
本願名号ほんがんみょうごうは不思議、不思議。
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
  
  「お浄土参りに 仲人なこうどを入れるなよ。 
 仲人なこうどとは 脳味噌のうみその働きを う」
 と言われています。
 「仲人なこうどを入れるなよ。」という言い方に、 何か限りない広い世界が開けていくように感じさせられます・・。


 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                                    
 
*「上手とは人をそしらず自慢せず、    
身の及ばぬをはじる人なり」   
この世の様々な人間関係の    
出来事を経験すればするほど 
この句の真実が胸に迫る。 
ここに上手とは、達人の意味にも   
取られようが、もっと平易に   
「立派にこの世を渡る人、  
まことの世渡り上手」と味うてみた 
い。もとよりそれは世渡りの技術で   
はない。我われは人の世をすみにく   
いとかこつ。しかし人生の実態に触  
れてみると、その住みにくさは、人  
間そのものが宿していることを経験  
する。「身の及ぱぬをはじる」とは  
決して卑屈になることではない。卑  
屈とは人に認められようと内心強く  
欲していながら、それのかなわぬ欲  
求不満の傷心をいう。いまの身の及  
ばぬはじるとは 大いなる光の前に  
立って自らを自照さしめられ、真実  
を仰慕し自己を策励せずにおれぬ心  
である。  
(先徳の法語)   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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