2021年1月 第111話

朝事*住職の法話

凡夫ぼんぶへの呼びかけ」
     
 せまわる  「」は 旧年きゅうねん師走しわすでも 「ほう」は新年 
あけて 目出度めでた
        (機→人間のこと)
 除夜もまた 元日もなし 南無阿弥陀 佛の慈悲は いつもお照らし
        稲垣師
 
 仏陀の言葉に次のようなものがございます。

 一夜賢者の偈(いちやけんじゃのげ)

 一夜賢者の偈
 過ぎ去れることを追うことなかれ。
 いまだ来たらざることを念うことなかれ。
 過去、そはすでに捨てられたり。
 未来、そはいまだ到らざるなり。
 されば、ただ現在するところのものを、
 そのところにおいてよく観察すべし。
 揺らぐことなく、動ずることなく、
 そを見きわめ、そを実践すべし。
 ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。
 たれか明日死のあることを知らんや。
 まことに、かの死の大軍と、
 遭わずというは、あることなし。
 よくかくのごとく見きわめたるものは、
 心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。
 かくのごときを、一夜賢者といい、
 また、心しずまれる者とはいうなり。
( 増谷文雄 訳)

 これは、『過去起きたことを悔やんだり、未来を心配して過ごすよりも、いま現在できることを精一杯することが大事である』という教えで、 『いま、ここ』が大事だということですね。
 過ぎ去ったことを、いつまでもくよくよしてはいけない。
 まだ来ぬことを取り越し苦労してはいけない。
それが人間として最も賢明な生き方であるということですね。
「今を賢明に生きよ」というのがお釈迦さまの教えなのですね。
 
 安田 理深師の言葉に次のようなものがございます。
 
「死から出発すると 初めて 生が 見通せる」
 「人生が行き詰まるのではない 自分の思いが 行き詰るのだ」
  
 ここに、「死から出発すると 初めて 生が 見通せる」
(安田 理深)
 とございます。 
 「死から出発する」という言葉が、するどく私の心に迫ってきました。
 死というところから、見ていくと、どんな方とも、同じだと感じられる気がするのですね。
 そこからは、上下もなければ、差別もない世界が開けていくような気がするのです。
 「同じ高さで同じ大きさで出会うこと」を、「同朋の世界」と言うそうです。
 私たちは、その世界を願って、「御同朋の社会の実現」という課題を、色々な人達から、問いかけられています。
 この世は差別に満ち満ちています。
 自分も、その片棒を担いでいるかも知れないですね!
 「死」は、ある意味で、自分自身に対して、「それで本当なの?」と、するどく問いかけて来る宗教的な「試金石」のようなものではないでしょうか?
 安易なところ、自分勝手な思い、いい加減なところで、落ち着かせない「試金石」が「死」というものなのでしょうか?
 「死」に対して通用するだけのものが宗教というものなのでしょう。
 それをわが身に体得することが大切ですよね。
 「仏法聴聞」(み教えを聞く)ということの大切さ、深さ、重み、「聴聞」の必要な事を再確認させられる気がします。
 
 「人生が行き詰まるのではない 自分の思いが 行き詰るのだ」
(安田 理深)
 という言葉も、するどく私の心に切り込んでくる気がしました。
 自分の思い というものを 何より大切に生きて来た気がします。    
 しかし、私の思いほど あてにならないものはないのかも知れません。
 「ころころと ころがる心 あてにすな 昨日のこころ どこへやら 今のこころも 風車 明日のこころも たよりない 三世のこころ 変わりづめ  あてになるのは  親の お慈悲の南無阿弥陀仏」

 親鸞聖人は、実に無我な方だと思います。
 例えば、 「正信偈しょうしんげ」に次のように記してございます。

 還来生死輪転家げんらいしょうじりんでんげ  決以疑情為所止けっちぎじょういしょち

「私たちが、生死を繰りかえし、迷いの生活に流されてしまうのは、阿弥陀の本願を疑って、 自分の思いに止まっているからであると明らかにされました。」

 速入寂静無為楽そくにゅうじゃくじょうむいらく  必以信心為能入ひっちしんじんいのうにゅう

「速やかに迷いの家を出て、寂かなさとりの世界に入ることは、必ず、真実信心によって実現する、と説いています。」

 弘経大士宗師等ぐきょうだいじしゅうしとう  拯済無辺極濁悪じょうさいむへんごくじょくあく

 「み仏の教えを弘めてこられた論主や祖師方は、濁り切った世の、数知れない極悪人を救いたもうています。」

 道俗時衆共同心どうぞくじしゅうぐどうしん  唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせつ

「仏道を歩む僧も、教えを信じて歩む在家の人も、この世に生きる者は、共に心を同じくして、ただ、この高僧の説・み教えを信ずべきです。」
   「正信偈」
 
 ここに「決以疑情為所止けっちぎじょういしょうち」と、 「阿弥陀の本願を疑って、自分の思いに止まっているからである」とあります。
 せっかく阿弥陀様の心を聞かせて頂きながら、自分の思いにとまっている、自分では中々気づかないけれど結局は、自分の思いにとまっているのですよね。
 知らず知らず、自分の思いと、自分自身が同一化されているのでしょうね。
 だから、「その考えは違うのではないですか?」などと言われたら、自分自身が全て否定されたような気がして、怒りが湧いてくるのでしょう?
 ここで、親鸞聖人は、「道俗時衆共同心どうぞくじしゅうぐどうしん  唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせつ」と言われています。
 「唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせつ
 「ただこの高僧の説を信ずべし」
 「私の説を信じなさい。」とは言われていないのですよね。

 ここに、「無我」を感じるのです。
 そういう親鸞聖人の無我の姿勢に、「この方の言われることに、ついて行こう。」という気持ちが起こって来るような気がします。
 不思議ですね。
 親鸞聖人の言葉を記録した 「歎異抄たんにしょう」に次のような一節がございます。
 
 「あなたがたがはるばる十余りもの国境をこえて、命がけでわたしを訪ねてこられたのは、ただひとえに極楽浄土に往生する道を問いただしたいという一心からです。
けれども、このわたしが念仏の他に浄土に往生する道を知っているとか、またその教えが説かれたものなどを知っているだろうとかお考えになっているのなら、 それは大変な誤りです。
そういうことであれば、奈良や比叡山にもすぐれた学僧たちがいくらでもおいでになりますから、その人たちにお会いになって、 浄土往生のかなめを詳しくお尋ねになるとよいのです。
 この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然上人のお言葉をいただき、 それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。」 (現代語訳)

 『親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。』(原文)とあります。

 『法然上人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。』
 と言われている、親鸞聖人の師匠の法然上人を、無我に仰ぐ姿に惹(ひ)かれます。
 それだけ法然上人の徳が勝れていたから、自然と、無我に仰ぐ信心の姿となったのでしょう。
 法然上人の中から発する、阿弥陀様の慈悲の光を感じられたのではないでしょうか?
 法話でも、御講師さまの発する言葉が、実に慈悲の温もりのある言葉のように感じさせられることがあります。
 そんな時に、何となく、話されている御講師の背後に阿弥陀様の慈悲の活動があると感じさせられたりします。
 御講師さまの法話を通して、阿弥陀さまの慈悲に触れているのが法話の一面なのかも知れません。
 阿弥陀さまのお徳が素晴らしいから、私たちも、自然と、阿弥陀さまに手を合わし、頭を下げるように、「お育て」を頂いていくのではないでしょうか。
 私がしっかりしているから、狂わない信心ではなくて、向うが、仏さまの方が狂わないから、私の信心も狂わないのではないでしょうか?

 ひたすら、仏さまを仰ぐ信心。
 それが一番 変わらない拠り所なのかも知れません。
 私の心、思いは、ちょっとしたことで変わり通しであります。
 ある方に親切にされて、感謝していたかと思っていたら、ちょっとしたことで、同じ相手を憎んだり、全く矛盾に満ちた私の心ではないでしょうか?
 人間の思考というものも、一度思ったことは、何らかの形で残っているのかも知れません。
 それだからこそ、他人からは見えない、隠れたところでも、自分の思いというものを、慎みたいものだと思うのです。
 「誰れも見ていないのだから、好き放題に思い、何をやってもいいんだ、誰れも見ていない、知らないんだら。」と思いがちですが、 たぶん、決して、そんなことはないのでしょうね。       
 「慚愧(ざんぎ)なき心に 仏は 宿りたまわぬ」
 「み仏の鏡に映る わが姿 落ちる 私と知らされる 助かる 私と 知らされる」
 み仏の鏡に照らされ、それを自覚させられるときに、凝視に耐えられない思いを抱いたり、やったりしている自分が恥ずかしい気もします。
 自己の無常なることを忘れて、自分の欲求のままに、ひたすら彷徨う迷いの姿を慚愧(ざんぎ)するのみです。
 浄土真宗の教えも、自分ではなくて、全て、阿弥陀さまの方から始まっているように感じます。
 「られ らるる らるる世界に 我はなし ちょっと ひねって 念仏三昧」という法語を聞いたことがあります。
 「られ らるる らるる世界」とは、分かりにくいですが、「何々させられる。」という受け身の言葉ですね。
 つまり、佛道を求めることから、歩むことも、仏様が、背後から、後押しして下さっている、という味わいの歌です。
 生身の個人としては、生死の問題とか、信仰というものは、実際問題として、自分自身の問題で、「私の歩む道」でありましょう。
 誰も代わってはもらえないですよね。一人一人が、道の探求者という言い方もできるのではないでしょうか?
 仏教を探求する上で、大切な心構えとして、 「三帰依文」(さんきえもん)、「礼讃文」(らいさんもん)というものがあります。
 大切な文として、勤行聖典の最初の方にも、記載されています。

「礼讃文」(らいさんもん)
人身(にんじん)受けがたし、今すでに受く。
仏法 聞きがたし、今すでに聞く。
この身 今生(こんじょう)にむかって度せずんば、さらにいずれの生(しょう)にむかってか この身を度せん。
大衆もろともに至心に三宝に帰依したてまつるべし。
 みずから仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 大道を体解して無上意をおこさん。
 みずから法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 ふかく経蔵に入りて知恵 海のごとくならん。
 みずから僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 大衆を統理して一切無碍(むげ)ならん。
 無上甚深微妙の法は、百千万劫にもあい遇(あ)うことかたし。
われ今 見聞 し受持することをえたり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

 「礼讃文」「三帰依文」には、「仏さま」に帰依し、「仏さまの教え」に帰依し、「教えを学ぶ方の集い」に帰依することが教えられています。
 この「礼讃文」の精神で、努力していくことが大切なことでしょう。
 しかし、自分が一生懸命、積み重ねて成立した信心なら、自分だけの信心で、仏さまとの触れ合い・響き合いがないような気がします。
  底下ていげの凡夫(ぼんぶ)という言葉があります。
 考えてみれば、下から上は見えないし、分からないですよね。
 高い世界からは、低い世界が、よくよく見えるし、分かるわけなのでしょう。
 しかし、反対に、低い世界から、高い世界のことは、下から上は、見えませんし、分からないのですよね。
 そこで、やはり、浄土真宗では、親鸞聖人のご指導を仰ぎ、頂いていくことが、当然のことながら、大切なことになってくることと思う次第です。
 それが「礼讃文」「三帰依文」の精神だと味わう次第です。
 お釈迦様は、「自灯明 法灯明」の教えを残されました。

 釈尊は、「自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他をたよりとしてはならない。
法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。
教えの要は心を修めることです」と、悲しむお弟子たちに最後の法話をされました。
 自らを灯火とするとは、教えを、ただ聞くだけではなく、自分自身のこととして、しっかり味わい、体得するということではないでしょうか?
 自分の人生は、仏道は、自分自身で歩むものですね。
 誰も代わってくれる者はありません。
 そこを厳しく諭されている教示だと感じます。
 釈尊が「法(教え)の要は、心を修めること」と説かれているように、欲に任せて自分を見失わず、自分の人生から逃避せずに向き合い、 正しく心を観察することを説かれたのでしょう。
  しかし、真理は真理でも、中々、そのような心境に至れないのが私達でもありましょう。
 どうしても、自分中心的になり、全てを、自分の都合で物事を考え、自分の思い通りにならないと、腹を立て、愚痴を言います。
 又、自分の人生に向き合おうとしないで、苦しみから逃げ出したくなる時もあります。
 これが「凡夫」というものでありましょうか?恥ずかしい事です。

 お経のなかに、「一日に 八万四千の念いあり 念々の所作 全て 三途の業なり」という意味の言葉があるそうです。
 一秒間の間にも、どんな恐ろしい、浅ましいことを考えているのか分からないところがあるのが、凡夫(ぼんぶ)というものだと説かれているのですね。
 それでは、「凡夫」(ぼんぶ)とは一体どういうものを「凡夫」と云うのでしょうか?

 「凡夫」という言葉は、仏教用語で「凡庸な士夫」、「仏教の教えを十分に理解していない者、愚か者」のことです。
 「煩悩と迷いが消えず欲望も多く、怒りや妬みなど負の心情に満ちている者」のことです。
 
 凡夫のことを、「罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)」とも言います。
 「自らが造った罪(つみ)等、又は、煩悩によって生まれ変わり死に変わりを繰り返している人びと」のことを意味します。
 善導大師が『観経疏』の中に、
「一には決定(けつじょう)して、深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、 常に没し常に流転して、出離(しゅつり)の縁有ること無し」
 と説かれています。
 「自らが過去から現在にいたるまで生死輪廻を抜け出せない凡夫であると自覚すべきである」と示されています。
 「罪業によって生死輪廻(しょうじりんね)を抜け出せ得ない凡夫である」と説いてあります。
 これは、「教えに照らされて、見えて来る自己の、偽らざる姿」でありましょう。
 凡夫というものは、自己の姿を中々、正面から、見つめたくないものではないでしょうか?
 他人から、親切心から、欠点を注意されても、腹が立ちます。
 しかし、真実の自己の姿から、逃げることは出来ないでしょう。

又、凡夫とは、「煩悩に束縛されて迷っている人」と教えられています。
 「凡夫」という言葉は、お釈迦様が、「観無量寿経」というお経の中で、イダイケという女性に「あなたは凡夫だ」と呼びかけたのです。
 だから、この凡夫という言葉は、「仏様から私たちのことを教えられた言葉で、私たちの問題を知らせる言葉」なのですね。
 よく会話の中で、「どうせ、私は、凡夫ですから」と言って、自分の欠点や、失敗などを言い訳したり自己弁護に使ったりします。
 しかし、本当は、それより、もっと深い意味が「凡夫」(ぼんぶ)という言葉にはあるのですね。
 自らを卑下するのではなく、「仏法に照らされて自己の愚かさを自覚した人」が、自らを「凡夫」と呼ぶのです。
 難しく考えなくても、日々の暮らしの中でも、助け合いながら、生きていきたいと願いながらも、自分の都合ばかり考えてしまったり、 そんな日常生活の実際の現場でも、「凡夫」ということを思い知らされることがあります。
 日常生活の中で、「あなたは凡夫だ」という「凡夫」という呼びかけの中で、それを聞き続けることで、自分の凡夫の狭く偏る有様を、仏さまの教えに照らされながら、 常に、仏さまに照らされ、仏さまに悲しまれている「大悲の心」を感じながら、凡夫同士が、非難し合うだけではなく、少しでも、温かい心を通わせながら、 互いを認め合いながら、支え合う世界を目ざして歩んでいけたらと思う次第です。
正信偈しょうしんげ」に「凡夫」という言葉が、次のように記してございます。  
   原文
本師源空明仏教ほんしげんくうみょうぶっきょう
憐愍善悪凡夫人れんみんぜんあくぼんぶにん

 読み方
「本師(ほんし)・源空(げんくう)は、仏教に明らかにして、 善悪の凡夫人を憐愍(れんみん)せしむ。」
 
 法然上人は、比叡山で、天台宗の学問、修行に励まれました。
 修養によって、法然上人は、当時、日本に伝わっていた仏教の教義の最も深いところを究められた方です。
 法然上人は、釈尊の教説である厖大(ぼうだい)なお経と、それらのお経に対する先人たちの解釈(げしゃく)等を学ばれました。
 そのことを、親鸞聖人は「正信偈」に「明仏教」(仏教に明らかにして)と記しておられます。
 仏教の教義に精通しておられたにもかかわらず、法然上人は、それらの学びからは、真の救いを見出されなかったのです。
 このような経過の中で、法然上人は、『仏説観無量寿経』と、善導大師(ぜんどうだいし)による、その注釈である『観経疏』に出遇われたのでした。
 善導大師が『仏説観無量寿経』の教説から受け取られた「ただ念仏して」という教えこそが、釈尊のご本意であることを、法然上人はお気づきになられたのです。
 「正信偈」には、 「憐愍善悪凡夫人れんみんぜんあくぼんぶにん」(善悪の凡夫人を憐愍せしむ)と述べられています。
「凡夫」とは、「普通の人」ということで、「真実に目覚めていない、どこにでもいる普通の人」のことです。
 法然上人は、「善悪にかかわらず、真実に目覚めることができていない凡夫」を憐れまれたのです。
  阿弥陀仏の本願が、「善悪にかかわらず、悩み多い凡夫」を憐れんで発(おこ)されている慈悲であり、凡夫は、本願に素直に従うしかないことを教えられました。
 凡夫とは、「自分が起こす欲望に自分が支配されて、悪を犯し、道に背き、仏が説き示された真実をないがしろにしている者」のことです。
 凡夫は、『わずかばかりの自分の努力をもとにして、知らず知らずのうちに、「仏様のお陰さま」なのに、それを、 「自分の手柄」として、誇ったりする者』のことです。
 凡夫とは、『知らず知らずのうちに、自分を高くして、高上りして、他人を見下して、「あの人は仏法を聞こうとしないのに、私は仏法を聞いている」 というように、自らの優越を誇っているの者』のことです。
 これも、『仏の真実、「お陰げさま」をないがしろにして、「自分の手柄」としている』凡夫の姿です。
  
 こういうように、善であろうと、悪であろうと、どちらにしても、愚かで悲しい存在であるのが「凡夫」であると説かれています。
 凡夫は、「どこまでも憐れむべき存在」であり、そのような凡夫であるからこそ、見捨てることができないと、働かれているのが、阿弥陀仏の本願だったのです。
 凡夫(ぼんぶ)とは、「六道を輪廻する者」のことです。
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界のうち、業によって六道を転生輪廻(りんね)する者、輪廻から出ていない。
 悟り・解脱(げだつ)を得ていない地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天を衆生といいます。
 凡夫はこのうち人間界の衆生にあたります。
 「仏教に出遭う以前の自らの煩悩に迷わされてさまざまな生き方をしている人」を意味します。
 凡夫ながらも、こうして仏法に出会わせて頂いていることは、佛様からの凡夫への呼びかけを頂いている、勿体ない事、お陰様だと味わう次第です。

 『朗読法話集(第一集)』(本願寺出版社)より
「人生と念仏」という一節を紹介させて頂きます。
 
 「人生と念仏」

浄土真宗で最も大切な経典である
仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』には、
ひと世間愛欲せけんあいよくのなかにありて、 ひとうまひとひとひときたる。」         『注釈版聖典』五六頁
と、人間の 孤独こどくのありさまが 説かれています。
また、財産があればあったで、それが苦しみのたねとなり、なければないで、 また苦しみにつながるように、人生はつねに、苦しみをともなうものであると述べられています。
 このようなことが説かれるのは、孤独で苦悩する私たち一人ひとりのうえに、共に悲しんで くださる仏さまの願いがかけられていることを教えるためでした。
 阿弥陀さまの願いは、「南無阿弥陀仏」という名号となって、私たちを呼びさましつづけていてくださいます。
ですから、どんな苦しいときでも、孤独の淋しさの中にあっても、この「南無阿弥陀仏」の六字の名号が私を支え、 導き、私の人生を力強く、歩ませてくださるのです。
 以前ドイツ語の教師として、岡山大学の 教壇きょうだんに立たれた 池山栄吉いけやまえいきち先生は、 親鸞聖人のみ教えを深くよろこばれ、多くの人びとに影響を与えられたかたです。
この池山栄吉先生が、重い病をわずらわれ、 臨終りんじゅう近くのときに
 
 『何も残るものはない 何も残るものはない
  ただ念仏だけが残ってくれる
  ただ念仏だけが残ってくれる
  えらいこったよ 有り難いこったよ』

と語られたそうです。 

 どのようなときでも、「南無阿弥陀仏」のいわれを聞かせていただき、「南無阿弥陀仏」をとなえさせていただき、 それをとおして如来さまの親心にふれていくことは、人生においてほんとうに力強い依りどこを持つことなのです。
 阿弥陀如来さまの救いのよびかけを、なかなか素直に聞くことのできない私ではありますが、せっかくこの世に 生を受けた身です。
如来さまの大きないつくしみのこころにふれ、 お念仏の深いみこころを、聞かせていただきましょう。 
 
 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                     
 
*あれこれ言い訳するよりも     
すなおにごめんとあやまろう   
*念仏は悩みをなくす術ではない    
悩んでいける道である 
*正しい意見でも思いやりが無ければ  
言われた人は傷つく   
*自分は自分の主人公   
光いっぱいの自分にしていく  
*自分の荷は自分で背負う 
たった一度の人生だから   
*動物を見てごらん   
悪口を言ったりしていますか  
【ある寺の掲示板】  
   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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