2020年11月 第109話

朝事*住職の法話

卑下ひげと慢心」
     
 トルストイの作った話だそうです。
 「バンホームは貧しい農民でありました。彼には、自分の土地というものがありません。
 バンホームは、たとえ狭くてもよい、自分の土地というものを持ちたいと、思い続けておりました。 
 ところが、あるとき、近くの地主が、狭いけれども欲しかったら譲ってもいいといっていると聞いて、早速ありったけの金を出して 
 自分の土地を持ちました。     
バンホームは、地主となった喜びに浸りました。しかし、しばらくすると、もう少し広い土地を持ちたいと思うようになりました。
 その時、他の地主から耳よりな話を聞きました。
 「明日の早朝、あの小高い丘のところに来るがよい。そして太陽が丘の上に出ると同時に、あなたは好きな方向に
 歩き始めなさい。そして、一日中好きな方向に歩き回って、出発の地点に帰ってきなさい。あなたの歩いた土地は、全部
 ただで上げましょう。ただし、太陽が大地に没する前に帰ってくることです。
 もし、それに間に合わないときは、全部無駄になりますよ」
 という話でありました。
 
 この話を聞いて、バンホームは、この夢のような話に乗り、参加しました。
 そして、予定通り、スタートしました。
 ところが、歩けばあるくほど、もっと広い範囲の土地がほしいと、段々予定よりも、広い範囲の土地を歩いていきました。
時間内に、と思って、焦ったバンホームは、次第に、足早になり、最後は駆け足になり、最後は、無我夢中で走りました。
 やっと太陽が沈む前に、目的のスタート地点に、帰り着きました。
 待っていた地主は、「でかしたぞ。この広々とした晄野(こうや)は、全部あなたのものになったぞ」と、大声で祝福しました。
 しかし、バンホームは、あまりに急いで走ったために、体に無理が来て、死んでしまいました。
 地主は、この哀れなバンホームのために、一坪(3.3平方メートル)ほどの土地を掘って埋めました。
 トルストイは、この話に「人はどれだけの土地がいるか」という題をつけました。
 余韻(よいん)の残る話であります。
 私が、心で願っていることも、バンホームと同じだと認めざるを得ません。
 
 このような話は、世界各地に言い伝えられているそうですね。
 何かが欲しいと思いはじめると、一つが得られたら、もっといいものが欲しくなっていく、そして、際限なく求め続けていく。
 求め続けていった、果てに待っているものは何か? 
 一体、何を求めているのでしょうか?土地もほしいです。財産も、名誉も欲しいです。
 しかし、人間の欲望というものには、「欲はキリがない。」と言うように、欲望には、満足ということがないのだそうですね。
「一つ叶えば、又一つ、一つ二つ三つ四つ五つ、六つ・難しの世や」というような言葉を、法話で聞いたことがあります。
 「喉(のど)が乾いた時に、塩水を飲むと、飲めば飲むほど、喉が渇く」ということもあり、欲望も、塩水のようなものなのだそうです。
 欲望のままに、生きていけば、決して、満足する時は来ない。
 何故なら、「欲望というものは、満足するということがない。」という性格を持っているからです。
 気楽な生き方を望み、忙しいことを言い訳にして、いのちのゆくえを真剣に考え、それに向き合うことなく、嫌なものは見たくないと 死から逃げ回っている自分ではないか?
 「逃げている間は、苦しい。」と言います。

 殺人犯の犯人が、罪を逃れて、逃げ回っていたけれど、ついに警察に捕まるということがありますよね。
 そんな時に、犯人は、ご飯を腹いっぱい食べて、ぐっすり眠るのだそうですね。(色々な場合があるでしょうけれどね。)
 逃げている間は、警察に、追いかけられているわけですから、ゆっくり眠ることさえできなかったのでしょうね。 
 「四十二章経」というお経に、次のように説かれています。

『人の命はどれくらいの間か?お釈迦様は弟子達に尋ねた。
 お釈迦様「人命幾許ぞ」弟子「数日の間にあり」お釈迦様「汝未だ道を知らず」
 お釈迦様「人命幾許ぞ」弟子「食事の間にあり」お釈迦様「汝未だ道を知らず」
 お釈迦様「人命幾許ぞ」弟子「呼吸の間にあり」お釈迦様「汝よく道を知れり」
 吐く息は入る息をまたない、それが人間の命の危うさである。』
 『四十二章経』
 釈尊は、人の命は、「呼吸の間にあり」、と説かれているのですね。 
 悟りを開かれた釈尊・仏陀(ブッダ)には、人間の考えを超えた、悟りの眼から、教えを説かれているのですね。
 「人の命は、呼吸の間にあり」ということは、「今・ここ」しかない。ということですよね。

 「昨日は 過ぎ 明日は明日の風が吹く 七難八苦 なんのその われに六字(南無阿弥陀仏)の 護(まも)りあり」
 蓮如上人の「白骨の御文章」には、次のように説かれています。

 『それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中 終、まぼろしのごとくなる一期なり。
 されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。
 一生すぎやすし。
 いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
 我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露より もしげしといえり。
 されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
 すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれ ば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげ きかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
 あわれというも中々おろかなり。
 されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはや く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきも のなり。あなかしこ、あなかしこ。』
  『白骨の御文』 蓮如上人
 現代語訳を紹介させていただきます。

 (現代語訳)
 『さて、人間の定まりのない有り様をつくづく考えてみますと、およそ はかないものとは、この世 の始中終、まぼろしのごときの一生であります。
 人が一万歳生きたとは、いまだ聞いたことがありません。
 一生は過ぎやすいものです。
 一体、誰が百年の命を保ち得ましょうか。
 我がさき、人がさき、今日とも知らず、明日とも知らず、人に遅れ、人に 先立ち、根元に雫(しずく)がしたたるよりも、葉先の露が散りゆくよりも繁(しげ)く、人は死んでいくものと言われています。
 それゆえ、朝には紅いの血気盛んな顔色であっても、夕べには、白骨となる、この身であります。
 今にも無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息は永遠に途絶えてしまいます。
 紅顔も、変り、桃李のような美しい姿も失われてしまうのです。
 家族親族が集まって歎き悲しんでも、全く何の甲斐もありません。
 そのままにもしておかれないので、野辺に送り火葬して、夜半(よは)の煙となってしまえば、ただ白骨が残るばかりです。
 あわれといっても、なお十分ではありません。
 人間の命の はかないことは、老いたれとか、若いとか、定まりのないこの世界の習いです。
 ですから、どの人もはやく後生の一大事をこころに思い、阿弥陀仏に、お任せして、念仏するのがよいでしょう。あなか しこ、あなかしこ。』
 『白骨の御文章』(現代語訳)
 
 人間の無常の姿を示して、はやく、阿弥陀如来にお任せし、念仏申す身となるよう勧められています。
 避けられない、必ず迎えなければならない、逃げられない死を念ずることが、現在の生を問わせるのには最も大事なことなのでしょう。
 ある先徳は、
「死というものは、他の人間にとって、死というものがあるので、自分自身には死というものはない。と言われている人がいる」
 と言われていました。
 自分にとって、身近な人が亡くなると、家族や、知り合いは、もう、その人の姿を見ることが出来なくなったわけですから、悲しいですよね。
 それが、「他の人間に対して死というものがある。」という意味なのでしょうか。
 「他人に対して、死はあるけれど、自分自身には死はない。」とは、どういう意味でしょうか?
 あんまり聞いたことがないような話なので、印象に残っていました。
 その先生も近年お亡くなりになられましたが、不思議と、最近よく思い出す話です。
 「かえるべき 親里あると知る智慧は 御名(南無阿弥陀仏)を聞く身の 幸にこそあれ」
 「微かにも 聞こえる御名(南無阿弥陀仏)のみ たよりなる わが身がらさえ 置きて 往く身は」
 私自身が、「今・ここ」で、往生する身にならせて頂いている。そのことを、よくよく聞かせて頂かなければならないと思う次第です。
 本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の「今ここでの救い」の一節を紹介させて頂きます。
 
「今ここでの救い」
 『念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。
 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
 親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。
 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。
 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。
 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。
 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。
 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。』
 「拝読 浄土真宗のみ教え」の「今ここでの救い」
 
 この解説を、本願寺出版社・月刊誌「大乗 DAIJO」に、葛野 洋明(かどの ようみょう)師は、次のように解説しておられます。
 『*浄土真宗の お救いは、今ここ
 浄土真宗のお救いは、今ここです。もちろん浄土に往生させていただいて、この上ない さとりを ひらいた仏と成らせていただくのは、 迷いの この命が尽きる時です。
 しかし、死んでしまわなければならない私に「わが国・浄土に生まれさせ、この上ない仏に成らせる」と誓いを立てられたのが阿弥陀如来です。
 この阿弥陀如来の救いの法が至り届き、疑う余地もなく、聞き受け信ぜしめられた、今・ここで、浄土に往生することが定まり、それは 同時に仏に成ることに定まるのです。
 親鸞聖人は この阿弥陀如来の救いを、信心を獲得(ぎゃくとく)する今《「正定聚」(しょうじょうじゅ)に入る益(やく)》を得ると明らかにされました。
 「正定聚」(しょうじょうじゅ)というのは、「正しく(まさしく)定まった ともがら」という意味です。
 親鸞聖人の細やかな お示しには「往生する身と さだまるなり」、「かならず仏になるべき身となれるとなり」とあります。
 阿弥陀如来の救いの法を聞き信ぜしめられた、今・ここで、往生・成仏決定(おうじょう じょうぶつ けつじょう)の身となるのです。
 現生(げんしょう)において正定聚(しょうじょうじゅ)に住(じゅう)するという、いわゆる「現生正定聚」と呼ばれる、 親鸞聖人が明らかにされた、浄土真宗の大きな特徴の一つです。
 浄土に往生して さとりをひらくという浄土教は、命を終える臨終の様子を重視する傾向が強くありました。
 なぜなら命を終える最後の最後まで、心を定めて浄土に往生しようとしたからです。
 そのために浄土から仏方(ほとけがた)のお迎えを期待したのです。・・・・・・・
 しかし、親鸞聖人は「臨終(りんじゅう)まつことなし、来迎(らいこう)たのむことなし」と示され、さらに 「臨終の善悪を申さず」と示されて、臨終(りんじゅう)の来迎(らいこう)や世間が勝手に評価するような臨終(りんじゅう)の善し悪しは、一切問題にしない、 それが阿弥陀如来の救いであると示されたのです。
 その理由が、ここに説かれている現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)という、浄土真宗の救いが今・ここであるということだったのです。
 
 *今の私が大きく変えられた
 浄土に往生させていただくという浄土教は、死んでからの救いだ。そんな救いは、今を生きる私には関係ない、この人生には役立たないと、非難されてきました。
 果たしてそうでしょうか?
 色々な思いに苛(さい)なまれて生きるこの私に、阿弥陀如来の確かな救いの法が至り届き、何があっても大丈夫、いつ終わるかわからないこの命、 その最後の様子も一切問題にしない、必ず救う阿弥陀如来の法が今すでに届いているなら、私の人生に何が起ころうとも、確かな安心、 大きな支えをいただいているのではないでしょうか。
 毎日の生活の様子はさまざまです。しかし、そのいのちの根源を支えてくださる救いをいただくなら、毎日の生活に大きな安心を与えられるのが 浄土真宗です。
 現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)という浄土真宗の特徴は、単に往生・成仏が定まったという将来の約束だけではありません。
 信心を獲得(ぎゃくとく)した時に、元来の迷い続けるいのちは、阿弥陀如来が見事に終えさせて、この度いのち終える時には、必ず往生し成仏する・ 仏と成るいのちとしてくださったのです。
 今ここに生きる私は、信心をいただく前となんら変わらない生き方をさらけ出していることがあります。
 しかし、さとりを知らず、自らが迷っていることも知らず、他者を傷つけ、自らも傷ついて、迷い続けていくだけの命ではなくなったのです。
 この度いのちを終えることは、死んでさらに迷いを深めていくだけの、自分ではどうすることもできない、ただただ恐れおののく他にない死ではなくなったのです。
 死ぬのではない。浄土に往(ゆ)き生まれ、二度と苦しみ迷い受けることのないさとりの仏と成る。
 このような素晴らしい意味を、今ここに生きている、この命に与えてくださったのです。
 迷い続ける凡夫(ぼんぶ)から、必ずさとりを開く凡夫へと、大きく変えられたのです。
 阿弥陀如来が、必ず救う、この救いを信ぜよと至り届いてくださったから、必ず救われると安心して生きることができるのです。
 浄土真宗の救いはまさに、信心定まる今です。』
 (「拝読 浄土真宗のみ教え」の「今ここでの救い」解説 葛野 洋明(かどの ようみょう)師)
  
 ある高名な指揮者は、コロナ禍の中でも、色々と万全のコロナに対しての対策はとって、コンサートをされたりしている。
 彼が言われるのに、「自分の経験から、この二十年くらいかな。震災など色々とある中で、皆さんと一緒に音楽を作ってきて感じたことは。
 ぼくらは、一人一人ばらばらなんですよ。違う場所に生まれて、違う年齢で、ヨーロッパに行くと、国も違うし、言葉も違うし、 宗教も違うし、そうして中で社会が出来ている。
 だからこそ、みんなで一つものを作るということは簡単なことではない。しかも耳を傾けなければならない。みんな違うことを思っているのだから。 
 オーケストラをやることによって、あるいは、演奏会をやることによって、音楽を聞くことによって、人それぞれにばらばらに育った人たちが、 一つの空気の振動を感じて、何か共振するものがある。 
 ぼくらに音楽を与えてくれたというのは、この中々難しい世の中に、他人同士が、全然本来ばらばらの人同士が、一つの音楽で、お互いに感動して、 拍手を送って、「ブラボー」と言って、声かけて、オーケストラは、そのことに喜びを感じて、一つの音楽を通して、みんな一緒に生きているな、 そういうことを感じられる。     
 一緒に生きていることは、喜びだと思えること、それが音楽の魅力であり、音楽をする人間が、そういったものを作っていかなければいけないだなあと思う。」
 と、静かに、熱く、自己の経験、苦労から語られていた。
 災害と言えば、沖縄の首里城が火災になって、約一年が経ち、かつて首里城を造る時の、職人の苦労を扱った番組を再放送しながら、 ゲストの意見を聞くという番組が、テレビで放映されていた。
 あの独特な赤い色は、まさに職人の苦労が編み出した赤色だったのだった。
 ゲストの一人は、「沖縄県民は、今まで、色々な苦しい体験をしながら、それを乗り越えてきた。だから、県民性として、苦しみはあっても、苦しみと共に、 それを乗りこえていく、ということも考えている。」という意味のことを言われた。
 沖縄県民に、首里城が復元することに対して、県民にインタビューしているところが放映された。
 首里城が必ず復元することを老いも若きも、強く願っていることが感じられた。ある高校生は、「おつりは全て募金にあてている。」と言っていた。
 その気持ちは素晴らしい。ある年配の人は「首里城が復元されるのを生きている間に見たいけれど、生きているかしら。」と明るく言われていた。
 沖縄県民は、戦争で多くの人たちが亡くなられた。生き残った人たちが、空手やサンチン (空手の型の一つ)等々、色々なものを伝承してきた。
 そんな中で、首里城は、目に見える沖縄文化の象徴的な建物であったと。
 又、沖縄県民の、全て、老いも若きも、首里城が心のよりどころとなっていた。
 外国からの観光客も思わず目を見張るものがある首里城は魅力的な勝れた文化財だった。
 あるゲストは、「私も、必ず首里城が再建されることを願っているし、必ず再建されることと思う。自分もできることで貢献したいし、汗かきたい。」と言われた。
 「そして、いつか、首里城が再建された姿を見て、その姿を心に映して、心満たされて、頭下げて、感謝したい。」という意味のコメントを言われ、感銘受けた。
  
 人間は、色々な欲望に引き回されて、中々安らかな心境にはなれない。
 ある賢者が言われていた。「欲望というものは、絶対に満足するということがない。それが欲望というものだ。」
 また、「欲望というものは、必ず未来に描いていくもので、今・ここにいないのが欲望というものだ。」と。
 「人間は、絶えず、未来に、自分の欲望というものを描きながら、今は不満足な状態になっている。それが人間の惨めさだ。」と。
 瞑想(めいそう)というものは、「今・ここ」に在る、ということ、それが瞑想というものだと言われていた。
 釈尊は、過去も未来もなく、「今・ここ」を生きていかれた。
 それは、とても優雅で、荘厳なものである。
 ここに紹介した、指揮者は、一つ音楽を通して、一人一人違うばらばらの人間が、一つ音楽を通して、一緒に生きていると実感できる。
 そういうことの素晴らしさを言われているような気がしました。
 それは、共に、今・ここに在る、それが喜びなんだと言われるいるようにも感じられました。
 また、首里城についてのゲストのコメントに中に言われていた、「首里城が再建した姿に、心満たされて、頭下げて感謝したい。」
 この言葉も、深く心に染み入るような感銘深いコメントだと感じました。
 浄土真宗の救いは、今・ここである。
 色々と育った環境も、考え方も違う、ばらぱらの人間が、一つの教えを通して、阿弥陀如来のみ教えに、共鳴して、心満たされ、頭下げ、 共に生きていく、一緒に生きていく道を恵まれていく、そんなことも思わせて頂いたりしました。
 蓮如上人の「御文章」の中に、「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはや く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。」
 とありました。
 「後生の一大事」という言葉、「一大事」ということは、滅多に使わない言葉です。
 私たち、一人一人が、迷いから、悟りへ至る道、そういう問題を抱えているのが人間である。
 目先の欲望に振り回されて、「あれも欲しい、これもほしい。もっと欲しい。足りない、足りない。」と欲求不満の惨めさの中にある私です。
 「拝読 浄土真宗のみ教え」の「今ここでの救い」の中にも言われていましたよね。
 『色々な思いに苛(さい)なまれて生きるこの私に、阿弥陀如来の確かな救いの法が至り届き、何があっても大丈夫、いつ終わるかわからないこの命、 その最後の様子も一切問題にしない、必ず救う阿弥陀如来の法が今すでに届いているなら、私の人生に何が起ころうとも、確かな安心、 大きな支えをいただいているのではないでしょうか。』
 (「拝読 浄土真宗のみ教え」の「今ここでの救い」解説 葛野 洋明(かどの ようみょう)師)
  
 このような教えを頂いているのだなあと、今更ながら、味わわせて頂く次第です。
 今回の法話の題として「卑下と慢心」というテーマを掲げさせて頂きました。
 「卑下」(ひげ)というのは、「自分なんか駄目だ。つまらない。」と、自分の値打ちを、とことん下げていくことですよね。
 反対に、「慢心」(まんしん)というものは、自分は偉いんだ、自分は凄いんだと、高上りして、驕慢(きょうまん)になっていくことですよね。
お経には、「卑下も慢心も、お経の言葉が信じられない。」という意味の言葉があるそうです。
 龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)は、 「仏様の教えが難しいのではない。自分はエライと思って、仏様の教えを拒絶しているから、難しく感じるのだ。」と教えられているそうです。
 恥かしい事です。
 人間は、少し勉強すると、知らず知らず慢心になってしまいがちですし、いくら教えを聞いても、中々分からないと、 「自分なんか、いくら教えを聞いても駄目なんだ、私は、つまらない人間なんだ。」と、卑下(ひげ)してしまいがちですよね。
 「卑下」(ひげ)ほど救い難いものはないそうですね。
 「卑下」と「慢心」を超えていく道。それが仏様の教えを聞かせて頂く身の幸せではないでしょうか。
 共に、仏法聴聞に励ませていただきましょう。共に、阿弥陀如来の救いの法を、わが身に聞かせて頂きましょう。 称名

 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                     
 
*人生は長いとずっと思っていた     
間違ってた   
おどろくほど短かった    
きみは 
そのことに気づいていたか  
長田弘(詩人)   
*「みずすまし」   
濁れる水辺 方一尺の天地  
みずすまし しきりに円を描ける  
汝いずこより来たり   
いずこに旅せんや   
へい 忙しゅうおましてな-  
【村上 志染】  
   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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