2020年10月 第108話

朝事*住職の法話

「仏法に極意ごくい無し」
     
 「自分で つくっている 自分
  自分で えらんでいる 自分
  どんな 自分を つくろうと
  どんな自分を えらぼうと」
      河井寛次郎

 
 河井寛次郎【かわい かんじろう】という方について紹介します。
(1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)
生誕は、1890年8月24日で、島根県能義郡安来町 に生まれられました。
死没は、1966年11月18日、76歳で、お亡くなりになられました。
 日本の陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残しておられます。
 
 一つの道に長年打ち込まれた方の言葉には、何か深い味があって、どんな分野の方の言葉でも、そんな人たちの言葉を聞くのが好きですね。とても魅力的だと感じます。
 この言葉は、河井寛次郎の文字と共に、深い意味は、よく分からなくても、不思議に、惹(ひ)きつけられる言葉であります。
 「自分から出たものは、自分に返る」という言葉を、仏法の法話等で、聞いてきた気がします。
自分自身が、日々、心で、何を発信しているのか?!
 「自分が笑えば、相手も笑う、自分が怒れば、相手も怒る。相手は鏡。」というご法話も聞いてきたような気がします。
  この頃、こういう言葉が、私自身を、厳しく照らす鏡として、私を導いて下さいます。
 原因があれば、結果が、必ずあります。
 自分の心、という原因を、省みないで、結果に対して、ただ怒り、憎み、非難しても、私自身は救われないですね。
 仏様の教え、という正しい鏡、私を、照らし、導く、正しい尺度、そういうものを、知らないままに、生きていくことの危うさということについて、反省させられ、 考えさせられることが多いです。
 もちろん、人間は、完璧ではありませんから、失敗することもあります。失敗から、学ぶことも出来ます。
 人間は、失敗からしか学べない、というような言い方をされる方もおられます。
  
 仏陀の言葉の、次の如くあります。 
 「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。」(中村元訳『真理のことば』) 
ものごととは、私達が、毎日経験し、又、目にしている生死、善悪、愛憎、苦楽、幸不幸等々の全てを言うのだそうです。
 そして、これら二元性は私たち自身の心から生じてくるというのですね。
 生死さえ心より起こるのだそうです。
 仏教で、これら二元性が生じてくる心に、騙(だま)され、翻弄(ほんろう)され、どちらにも、執着してはならないと教えているのですね。
 難しい事は、分かりませんが、要は、心にもとづき、色々な苦楽が生じて来る、ということは、私自身の日々の心の在り方が、厳しく問われているということですね。
 考えてみれば、毎日の生活は、自分の尺度で色々と測り、自分中心の、狭い狭い色眼鏡で、自分の都合を中心として、考え、相手を責め、裁き、非難して、 何の反省もないのではないでしょうか? 

仏陀の言葉に、次の如くあります。
 「自分を苦しめず、人を傷つけない言葉のみを語りなさい。 」
  (『テーラガーター』)
 現代の、ネットの世界では、相手への誹謗中傷が、言いたい放題になっています。
 言われた方が、自死する、という痛ましい事件も起こっています。
 誹謗中傷、つまり、相手への悪口ですね。
 仏法の教えでは、相手を責めるものは、自分も責められるということになるのでしょうか?
 気をつけたいのは、自分は、何の反省もなく、自分中心の尺度で、相手を好き放題に責めて、何の反省もなく、そのくせ、自分に、責められた時に、 「自分も、同じように、こんなふうに、相手のことを、責め裁いて、悪口を言っていたよなあ。」という反省が、中々、起こらず、 「何故、私が、あの人から、こんなこと言われないといけないのか!」と、ただ怒り、憎しみ、相手への悪口の応酬、ということになりがちです。
 自分が相手を非難し続けていると、その反動から、自分が、常に批判されているように感じて、批判されないように頑張って行こうとして、 つまり、自分が本当にやりたいからするのではなくて、批判されないように頑張るということがあるのだそうです。

 例えば、「あの人は、怠け者で、本気で、仕事をやっていない。いい加減に、適当にやっているだけじゃないか!」と、心の中で、責め裁いていると、 その「跳ねっかえり」が、自分に来て、「何か、一生懸命にやらないと、責め裁かれる」、という強迫観念から、頑張っていく、ということがあるそうです。
 自分が本当にやりたいからするのではなくて、責められるからする、ということになっていくのだそうです。
 自分の心が発信する、その「跳ねっかえり」が、自分に必ず返って来る、という現象が起こるのだそうですね。
 これは法則であるらしく、そういう通理を知らないで、無意識的なままで、無自覚に、生きていく危うさを思う次第です。
 「よい言葉」を、言葉を発する自分と、それを受け取る相手の双方の視点から考えることが大事でありますよね。
 互いに苦しむことなく、傷つけない言葉を語るには、相手に言う前に、少し間を空けて、考えから言えと、教訓的に、よく言います。
 自分が相手に伝えようとしていることを一度振りかえる必要があり、相手にどう受け取られるか、相手の立場にもならないといけない。
 「良い言葉」は、感情のままに発せられるものでもなく、相手を通じて自分の内面を見つめる作業を必要としますよね。
 日々の生活の中で、当たり前のように、他人のことを、責め裁き、他人の悪口を言う時に、その都度、少しでも、意識して、自分の感情の揺れ動きに気づき、 仏陀の教えた心のあり方に、問いかけ、少しでも、自分の心を振り返り、歩んでいきたいものだと思います。

 私達は、日々の色々な出来事を通して、意識的になることが、求められているのです。
 少し難しいことのように感じますが、少しでも、努力はしなければいけないのでしょう。
 他人の悪口を言う事は、「天に唾する」というように、自分に対して悪口を言っていることと同じなんでしょうね。
 「他人を 呪わば 穴 二つ」という言葉もあります。
 「他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されることになるので、墓穴が二つ必要になる。
 人を陥れようとすれば自分にも悪いことが起こる。」という意味だそうです。
 「人を怨み、その人の不幸を願い害を与えようとすれば、やがて自分も害を受け、いやな思いをしなければならない」という意味だそうです。
 他人を呪い殺そうとすれば、その怨みの報いとして、今度は自分の命が危なくなり、相手と自分の二つの墓穴が必要になる、ということから生まれた諺のようです。
 当然、ここには、他人を怨み悪いことを考えるのを戒める意味があるわけです。
 他人を責めていて、幸せにはなれないということでしょう。(これは、心の問題ですね。)
 「まかぬ種は 生えぬ」という教えがありますが、私自身の、心が発信している、心の問題として、厳しく自己自身に、問いかける教えであります。
 釈尊は、慈悲心から、皆が幸せになることを願われ、教えを説かれたのでしょう。
 その根本には、慈悲というものがあったと思います。
 「そんな心で生きて行っては、大変なことになりますよ。」と、厳しく、温かく、慈悲心から、警告して下さっている気がするのですね。
 私たちは、自分に都合のいいものを、優しい慈悲だと感じ、自分に反発する人を、無慈悲だと、とことん責め裁きますが、本当の慈悲とは何か?
 これは、大変大きな問題だと思います。
 自分に都合のいいものが慈悲だと考えていたら、それは真の慈悲ではないのかも知れません。
 
 人間関係でも、自分に都合のいい人は、良い人で、自分の都合に合わない人は、悪い人になっているのではないでしょうか?
 「何でも、自分の思い通りに、他人がしてくれなければ、絶対に我慢できない。
 自分の言うとおりにしない人は許せないし、私の言う事を聞かないのなら、気に入らない!仕返しをしてやる。」
 これでは、いくら人生経験が豊富でも、いくら頭が良くて、能力があっても、これでは、大変失礼ながら、子供のままではないでしょうか?
 私も、私なりに、出来るだけ、相手を喜ばせたいとは思いますが、過度な欲求は、満たせないと感じますし、負担なだけです。
 大体、そういう人は、他人は、自分の欲求を満たすための道具くらいに、思われているのでしょうか?
 その人の周りの人たちが、その人のご機嫌ばかりとっている環境に居る場合もあるかも知れません。
 人は誰かの期待を満たすために、ここにいるのではないでしょう。
 人は、その人自身の人生を送らなければならないのではないでしょうか?
 誰も他人を搾取してはいけないのではないでしょうか。
 自分だけではなくて、誰も、幸せを求めているのではないでしょうか?
 自分のことだけでなく、少しは他人のことも、思える人間に成りたいと、切に自分に言い聞かせる次第です。
 過度の欲求を他人に強要して、知らないうちに、どれだけ、他人に、心の負担をかけていることでしょう? 恥ずかしいことです。
 又、過度に、勝ち負けにこだわる人、自分が一番じゃないと気が済まない、自分が上に居ないと嫌な人も、大変失礼ですが、子供じみて感じますね。
 これも、私自身の心の姿、自分の姿を、他人の姿を通して、見せられ、教えて下さっているのでしょう。
 自分のことを忘れられる人が偉大な人ではないでしょうか?
 それが宗教的な安らぎでもあるのではないしょうか。
 自分のことを片時も忘れなれない凡夫ではあります。
 しかし、あまりに、自分のことばかり考えていたら、疲れるだけですし、たまには、自分のことなんか忘れたいものですね。
 小さな自分なんか、大いなる命に中に、静かに消え去っていきたいものです。
 まもなく、全てを置いて旅立っていくのではないでしょうか? 
 本当に、大いなる命の中に、消え去っていくのではないでしょうか?これは、大変な問題なんですよね!
 「呼び声に 己れ 忘れて 西の岸」
 やはり、仏法聴聞が大事ということではないでしょうか。仏様の心をわが身の奥底に頂き切ることが大事ではないでしょうか。
 しかし、相手の欠点が見えるのは、この私自身に、相手と同じ欠点・心があるから、相手の欠点・心が気になり、許せなくなるのだそうですね。
 心の綺麗な方は、他人の欠点が、気になることはないそうですね。恥ずかしい事です。
 ある講師の方が言われていましたが、「子どもの頃、妹が、『大人って言ったって、子どものヒネたのが大人だから。』と言うので、兄が、 『お前、そんなこと、どこで聞いてきた?それは、お前の智恵ではないだろう。』と聞きただすと、『寺の説教で、お坊さんが、そう言っていた。』と、 妹が言った。
 しかし、大人になっても、妹が言った言葉が、いつまでも、心に残って、忘れられない。」と。
 妹が、お坊さんの説教を聞いて、受け売りで言った言葉に過ぎなかったのですが、兄は、聞いて驚き、後年になっても、いつまでも心に残ったのですね。
 互いに、過度な欲求を他人に対して起こして、自他ともに苦悩していることに、目覚めたいと思う次第です。
 しかし、長い間、付き合っていますと、「過去に、あの人に、こういうことをされた。こういう酷いことを言われた。」と、 嫌な記憶が積み重なっていくこともあります。
 しかし、過去は過去ですよね。今は今です。
 過去の記憶に、対して、いたずらに、反応して、貴重な時間を、無駄にしたくないものです。
 過去の記憶は、今に対しては、死んだものですよね。
 
 そこで、最初に掲げました河井寛次郎氏の言葉です。
 「自分で つくっている 自分
  自分で えらんでいる 自分
  どんな 自分を つくろうと
  どんな自分を えらぼうと」
      河井寛次郎
 
 過去の記憶に反応する道を選んでいるのも、自分自身が、選んでいる、ということになりますよね。
 自分自身が、やっていることなら、自分自身が、選ばないようにすることも、心掛けることが出来るはずですよね。
 「笑って過ごしても一日、怒って過ごしても、一日、同じ一日なら、平和な心で」
 「泣いても、笑っても、今日一日」
 本当に、苦しい体験をされた方が、こういう境地に至られるのでしょうね。
 あるお寺の掲示板に、「仏法に復讐はなし」と書いてあったそうです。
 復讐ほど、無駄な、徒労なものはないのではないでしょうか? 
 「あいつは、私にこんなことをした。あんなことを言いやがった。」と思っても、相手は、何とも思っていないかも知れませんし、 それに復讐したところで、自分の気が済むくらいが、関の山で、長い目でみたら、結局は、自分が損しているのでしょう。 
 それに、復讐なんて、なんて狭い小さな心でしょうか? 
 あるお寺の掲示板に「昨日は 悟り 今日は悩む 頑張りましょう」というような言葉があったように覚えています。
 あまり教訓じみていないし、どこか面白い、ユーモラスな法語だなあと、心に、印象深く残ったのです。
 考えてみれば、仏法の話を聞いたり、読んだり、話したりしている時は、どこか悟ったような気分でいたとしても、次の日には、自分が凡夫であることを、 嫌というほど、思い知らされることであります。
 全く、「昨日は 悟り 今日は悩む」です。実感のある言葉だと思いますね。又、頑張りましょう。
 今日の法話の題として、「仏法に極意なし」という題を、掲げさせて頂きました。
 これは、「仏法を学ぶのに、近道はない。苦労するしかない。」
 という意味なのですね。 
 「苦労」これが仏法を学んでいく上で大切なことで、苦労していくしかない、というのが、凡夫である、私自身へのエールですね。
 これは、他人との競争や、上下なんか、まったくは関係ない事柄です。一人一人の問題だと思います。
 私は、謙虚に、熱心に、一筋に、聴聞し続けていく、熱心な御門徒・同行の方々の姿に、導かれて、励まされてきたような気がします。
 その姿、熱心に道を求める姿で、教えて下さった、導いてい下さったと感じるのですね。
 明日ではなくて、今、共に、仏様の救いの働きに、目覚めさせて頂かなければ、と思う次第です。
 
 「唯信鈔文意」という御聖教があります。
 親鸞聖人が、同じ法然上人門下の先輩にあたる聖覚法印(せいかくほういん)の著された『唯信鈔』について、その題号および引証された経釈の要文に、 註釈を施された書物であります。
 本書は、この『唯信鈔』の要文を解釈し、人々に領解しやすいように懇切に説き示されたものであります。
 次の如く説かれています。
 『「唯信抄」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。
 また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。
 虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。
 本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。
「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。
このゆゑに「唯信鈔」といふなり。
また「唯信」はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり、すなはち本弘誓願なるがゆゑなればなり。
  
「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
 「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。
「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。
「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。
この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。
この仏の御名は、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。
これすなはち誓願なるがゆゑなり。
「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、 「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。
 「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きはなしといふ。
「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり。
しかれば大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、 この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。
一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり。
光明は智慧なりとしるべしとなり。 』 【「唯信鈔文意」】
 
 この文の、現代語訳を、紹介させて頂きます。次の如くであります。
 『「唯信鈔」 というのは、 「唯」 はただこのこと一つということであり、 二つが並ぶことを嫌う言葉である。
また、 「唯」 はひとりという意味である。
 「信」 は疑いのない心である。
すなわちこれは真実の信心であり、 虚仮を離れている心である。
「虚」 は 「むなしい」 ということであり、 「仮」 は 「かりの」 ということである。
「虚」 は実でないことをいい、 「仮」 は真でないことをいうのである。
 本願・他力に、おまかせして、自力を離れていること、 これを 「唯信」 という。
 「鈔」 はすぐれていることを抜き出して集めるという言葉である。
このようなわけで 「唯信鈔」 というのである。
また 「唯信」 というのは、 この他力の信心のほかに、別のことは習わないということである。
すなわちこの信心は、 阿弥陀仏が、広く、全てのものを救おうと誓われた本願そのものだからである。
 五会法事讃 に、 「如来尊号(そんごう)甚分明(じんふんみょう) 十方世界普流行(じっぽうせかい るふぎょう)  但有称名(たんうしょうみょう)皆得往(かいとくおう) 観音勢至自来迎(かんのんせいし じらいこう)
(如来の尊号は、 はなはだ分明なり。 十方世界にあまねく流行せしむ。
ただ名を称するのみありて、 みな往くことを得。
観音・勢至おのづから来り迎えたまふ)」 と言われている。
 「如来尊号甚分明」 について、 この文の意味は、 「如来」 というのは、無礙光如来である。
「尊号」 というのは南無阿弥陀仏である。
「尊」 は尊くすぐれているということである。
「号」 は仏になられてから後のお名前をいい、 「名」 はまだ仏になっておられないときのお名前をいうのである。
この如来の尊号は、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできないのであって、 全てのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせてくださる、 大いなる慈悲のお心があらわれた、誓願(せいがん)の名号(みょうごう)なのである。
この仏の名号は、 あらゆる如来の名号よりもすぐれている。
なぜなら、 この名号は、 誓願そのものだからである。
「甚分明」 というのは、 「甚」 は 「はなはだ」 ということであり、 すぐれているという意味である。
「分」 は 「わける」 ということであり、 あらゆる凡夫を、一人一人見分けて救うという意味である。
「明」 は 「あきらかである」 ということである。
 全てのものをことごとく助けてお導きになることが、 明らかであり、 一人一人を見分けて救うのであり、 それがすぐれているというのである。
 「十方世界普流行」 というのは、 「普」 はあまねく、 ひろく、 果てしないということである。
「流行」 とは、 数限りない全ての世界のすみずみにまで広く行きわたり、 南無阿弥陀仏の名号を勧め、 念仏させて下さるのである。
そのようなわけで、 大乗、小乗の聖人も、 善人・悪人全ての凡夫も、 みな自力の智慧では大いなるさとりに至ることがなく、 無礙光仏のおすがたは智慧の光でいらっしゃるから、 この仏の智慧からおこった本願の海に入ることをお勧めになるのである。
無礙光仏は全ての仏がたの智慧を集めたおすがたなのである。 その光明は智慧であると心得なさいというのである。』
   【現代語訳】より
   
 長く、難しい仏教用語の記載となりました。  
 ただ、この中に、私たちの人生を支える働き、私たちの人生の根っことなっている、大いなる働きが説かれていると思うのです。
 『 「唯」 はただこのこと一つということであり、 二つが並ぶことを嫌う言葉である。
  また、 「唯」 はひとりという意味である。 』
 と説かれています。
 私の人生の、ただ このこと一つ という拠り所、私 ひとり の真の拠り所。
 私の思いや、考え、計らいを、はるかに超越した仏様の世界から、私に届けられている働き。
 それが、ここに、説かれていると思うのです。
 あるお寺の掲示板に「幸せに、小さい、大きいはない。全て大きな幸せ。」とありましたが、仏様の働きが大きいから、全て大きな幸せと表現されたのでしょうか?
 妙に心に残った、味わい深い法語でした。    
 『「如来尊号甚分明」、如来とは、無礙光如来(むげこうにょらい)である』、とあります。
 無礙(むげ)というのは、どんなものも障害にならない、どんな障害をも、打ち破って下さる仏様の働きであると聞かせて頂いています。
 『「尊号」 というのは南無阿弥陀仏である。』とありますように、仏様の心が、南無阿弥陀仏という尊号(そんごう)となって、今、ここの私に届いて下さっている。
 『「尊」 は尊くすぐれているということである。』とあります。その仏様の働きは、尊く、すぐれているのですね。
 『この如来の尊号は、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできないのであって、 全てのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせて下さる、
 大いなる慈悲のお心があらわれた、誓願(せいがん)の名号(みょうごう)なのである。
 この仏の名号は、 あらゆる如来の名号よりもすぐれている。 』と説かれています。
 南無阿弥陀仏という尊号(そんごう)は、たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない。
 全てのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせて下さる、そんな広大な働きなのですね。
   
 「甚分明」 というのは、 「甚」 は 「はなはだ、 すぐれている」という意味であります。
 「分」 は 「わける」 ということであり、 あらゆる凡夫を、一人一人見分けて救うという意味である。
 ここに、一人一人 見分けて救う、とあります。一人一人ということを、私自身に頂く時に、深い味わいが感じられるのであります。
 『全てのものを、ことごとく助けてお導きになることが、 明らかであり、 一人一人を見分けて救うのであり、 それがすぐれているというのである。』とあります。
 すべてのものを、ことごとく助けて下る、ということは、今、ここにいる、私を助けて、お導き下さることですね。
 『「十方世界普流行」 というのは、 「普」 はあまねく、 ひろく、 果てしないということである。 』ということは、この私のところまで、 届いて下さる、仏様のお働き、ということと味わえます。
 『「流行」 とは、 数限りない全ての世界のすみずみにまで広く行きわたり、 南無阿弥陀仏の名号を勧め、 念仏させて下さるのである。』とあります。
 「流行」とは、この私のところへ、仏様のお心が、流れて下さり、お念仏となって、私に届いて下さるお働きという事ですね。
 一つ、一つ、唯信鈔文意のお言葉を、私のところまで、お働き下さっている、仏様の広大な、お働きと頂く時に、尊い感じに打たれます。
 ある先生は、仏様のお働きを、お月様に喩えられました。
 とても、味わい深く、印象に残ったお話でした。
 夜は暗いようだけれど、お月様が出ていて下さった。
 そのお月様は、私たちの人生を照らす、仏様の働きであった。
 それも、自分から、仏様に向かう働きではなくて、仏様の方から、私の所へ来て下さる働きであった。
 私を照らす、お働き、お月様が仏様でありましょう。
 蓮如上人の「御文章」五帖目第二十二通に、次の如くあります。
 「ただひとすじに、阿弥陀如来を一心一向におたのみ申し上げて、おまかせする心のおこるときに、阿弥陀さまは摂取(せっしゅ)の光明を 放たれて、この私を、その光明のなかに摂(おさ)めとって下さるのです。娑婆(しゃば)では色々なことがありますが、どんなことがあろうとも、 阿弥陀さまは、いつも私を見まもって下さるのです。
 私は、阿弥陀さまの慈悲と智慧につつまれているのです。」と説かれています。
 蓮如上人は、幼い頃に、実母に別れられ、母親を慕う気持ちが強かったと言われています。
 阿弥陀さまの 温かい慈悲の心の心を「極大慈悲母」と源信和尚(げんしんかしょう)は言われました。
 「極めて、大なる、お慈悲のお母さん」それが阿弥陀さまであります。
 お母さんの慈悲を、百億千倍大きくしたのが如来様と説かれています。
 蓮如上人の御苦労なご一生を支えたものは、「極大慈悲母」の阿弥陀さまの「決して、あなたを見捨てない」という、 母親のような温かい慈悲の心だったのでしょうか。 
 どんな人も、一人一人が、みんな凄い人生を生きているのです。
 自他ともに、心豊に生きていける社会の実現に貢献したいものです。
 一人一人が凄い人生を、みんな生きています。捨てられていい人は、一人もいないはずです。 称名


 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                     
 
*ナムアミダブツ ナムアミダブツ     
ひとこえ ひとこえ   
如来のおでまし    
ひとこえ ひとこえ 
浄土真宗  
無常 無常というけれど   
今 無常とはしらなんだ   
お助け お助けというけれど  
今 お助けとはしらなんだ  
ご縁 ご縁 みなご縁   
困ったことも またご縁   
南無阿弥陀仏に あうご縁  
【木村 無相】  
   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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