2020年9月 第107話

朝事*住職の法話

「『よびごえ』がみちに」
     
 娑婆(しゃば)というところは「忍土」(にんど)と言って、我慢しなければ、耐えなければならないところだと言われますが、 しみじみと娑婆(しゃば)に生きていることを感じさせられる昨今ですね。
 娑婆(しゃば)というところも、ぼおーとしていたら、あっという間に終わってしまうように、「無常」というところが娑婆(しゃば)というところでもあります。
 そんな中で、どうしても聞いておかないといけない、それが「後生の一大事」(ごしょうのいちだいじ)だと言われています。
 蓮如上人の書かれた御文には「後生の一大事」という言葉が何度か出てきます。
 有名な白骨の御文にも「後生の一大事を深く心にかけて、念仏申すべき」というお言葉があります。
後生とは今生(こんじょう)つまり現世に対しての言葉で「後世(ごせ)」とも言います。
 蓮如聖人のおっしゃった「後生」というのは私達が、死後に帰っていく場所のようなものです。
 人生を日々、楽しく過ごしますが、これも帰る家があるから安心して楽しめるのです。
 浄土のことを、「本家」とか「家郷」と言われた高僧もおられました。
 帰る家がなければ、いくら楽しい人生でも、安心して旅ができないのではないでしょうか?
人生という旅は、必ず終わります。しかも、いつ終わるのかは自分でもわかりません。
 人生は、一瞬、一瞬、生死、生死を繰り返しているのだと言われています。
 後生は今この瞬間かも知れないのです。
 
 私達は、まだまだ後があると思って生きています。このことを「有後心(うごしん)」といいます。
 「有後心(うごしん)」の反対は、「無後心(むごしん)」と言います。
 「明日はない。」という気持ちが「無後心」(むごしん)という言葉の意味です。
 仏法は、「無後心」で聴聞しないといけないと誡められています。
 「聴聞の心得」に次のように諭されています。
 『このたびのこのご縁は 初事と思うべし
  このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし
  このたびのこのご縁は  今生最後と思うべし 』
私達は、逃れることのできない「生老病死」を抱えて生きていますが、帰るべき家郷をはっきりさせることで、 かけがえのないこの一日一日の「現在の生」を大切に生きることができるのでしょう。

 お釈迦様も、親鸞聖人も、肉体を持っている限りは、死というものは避けられないと、自ら「無常」の姿をお示しになられました。
 私たちも、肉体を持って生きている限りは、必ず死はやってきます。
 体は死にますが、「私自身」は、どうなるのでしょうか?
日々、自己中心の自我を中心にして、自分の都合を中心に生きている、この私の日々の業は、因果の通理からすれば、一体どうなるのでしょうか?
 昔の人は、「死んだら、私はどうなるのか?」ということを真剣に考えるところがありました。
 現代は、「死後どうなるのか?」というより、「死んで無になる」ということへの恐怖に悩むということがあるのかも知れません。
 

 昔、大阪の和泉に吉兵衛(きちべえ)という信者がおられました。
 彼の言葉に、次のような言葉があります。
 「私の死んだ後で、私の言うたことが残らなんだら、迷いぬけた(迷いに迷っている)と思っておくれヤ
 もし残ってあったら、光明に移ったと思うておくれヤ。」
 この吉兵衛という方の言葉は、他の妙好人(みょうこうにん)【浄土真宗の有難い信者のこと】の方の言い方と少し違った表現をされるところのある方みたいです。
 少し禅味(ぜんみ)があるというのでしょうか?ズバッ、ズバッと言うところがありますね。
 少し聞いただけでは、何が言いたいのか分かりにくい感じもします。
 吉兵衛(きちべえ)という信者は、魚の行商をされていたようです。
 みんなは、彼のことを、「隠居様」【いんきょさま】等と呼んでいたようです。
 物種吉兵衛【ものだね きちべえ】とも呼ばれていたようです。
 彼について、このような逸話があります。
 「隠居様(吉兵衛)は商いに行って、魚が時々売れ残ることがある。そんな時 近所へ それを配りに行って、 『この魚、味おうて(おいしく)食べておくれ。他のものは、 こちらから味をつけねばならぬが、この魚は命を捨ててくれたゆえ、体から味を出してくれるノヤ。 味おうて食べておくれヤ』と申して家へ帰って来られた。ご飯がすんでから、またその家に行って、『味おうて食べてくれたか?』と尋ねられた。」
 彼を取り巻く世界には、何か不思議な温かみが感じられます。信心の温かさでしょうか?
 何気ない会話の中に、深みがあります。

 また、次のような話もあります。
 「隠居様は私や 恩を知らん者や と いつも言ってござった。他の者は みな御恩や 御恩やと言っていながら不足ばかり言っている。
 隠居様の様子を見ていると、その言動は御恩に叶うているのに、それに私や 恩を知らん者や と言ってござった。
 隠居様が不足を言ったのを聞いたことがなかった。」
 健康にも、やはり心が影響するそうですね。「悪口」や「不足」の思いは、血液を濁らせて、病気の原因になると聞いたことがあります。
 日々、ついつい、他人の悪口を言ったり、「もっとこうなったらいいのに。」と、不足の思いが湧いてくることは多々あります。
 吉兵衛は「今」ということを、よく言う。吉兵衛は、いつも、この「今」に住することを忘れない。
 仏さまの光明は、「常に わが身を 照らすなり」と教えられています。
 「常に」ということは、「どんな時も、変わらない」と同時に「今」ということでありました。
 「阿弥陀さまは、今 見てござる。」と先徳は言われています。

 物種吉兵衛【ものだね きちべえ】は1803年大阪に生まれ、明治13年(1880年)77歳で、往生されています。
 吉兵衛は、25歳頃に、子までもうけた女性との仲を裂かれた失恋の経験をしている。
 この事件が、吉兵衛の説教聴聞の発心の要因になったようであります。その頃から、何らかの解決を求めて、寺院や在家の説教聴聞の席に出て、 親鸞聖人の教えに近づいていきました。
 吉兵衛は、説教聴聞や、聖典の理解などで、真宗の教えについて、知的な理解は持っていたようです。
 自分で、仏法の講師が出来るくらいの知識は持っていたようです。
 けれども、心の底から納得できないものが残った。
 そんな気持ち、煩悶を、吉兵衛は、「死んでいけませぬ」と言っている。
 浄土真宗の「後生の一大事」に気付いた姿であります。
 今までの知的理解では、落ちつけない事態が起こってきたのです。
 そうし吉兵衛は、35歳頃に、3年の旅に出たという。その目的は、自分の疑問を解決したいからであった。
 吉兵衛(きちべえ)は、「こうしているうちに往生の済んだ人がなければならぬ」と言った。
 「経典口無し、木像物言わず、人を以て これを言わしむ。字になったら字ヤ。生きて話し合うということはエライ事やデ。
 生きて物言うて下さる方(信仰の真髄を伝え得る宗教的人格)に遇わなければかなわんデ。」と言った。
 吉兵衛(きちべえ)は、そういう宗教的人間を探していた。
 それは、僧侶であるとか、在家の信者であるとか、僧俗の区別は関係はなく、良師を求めた。
 吉兵衛(きちべえ)の内心の不安は、焦燥は、根源的で、差し迫ったものがあった。

 「お互いに こうしている間も、毎日命は向こうへ向こうへと移っている。日々死が首に纏(まとわ)い附(つ)いてきた。
  蓮如(れんにょ)様の御文章に平生業成(へいぜいごうじょう)と仰せられてある。
  平生業成(へいぜいごうじょう)ということは、こうしている間のことヤ。こうしているうちに往生の済んだ人がなければならぬ。
  この身の落着(おさまり)が どうなるか、どう仕舞がつくか、行って見んと知れぬ。(死んでからでないとわからぬ) というようなことではない。
 行って見んと知れぬ というのは疑の心ヤ。御文章、御和讃、他人のようなことではない。夜が明けてあるも知らず、火の消えてあることも知らず眺め切った。
 この御和讃、御文章に逢わせていただくと、こんな者の助かることにチンと出来上がっている。
 そこに逢うと何とも申しようがない。それに逢いながら私は死んで行けぬ。それ故私はジットしておられなんだ。
 平生業成(へいぜいごうじょう)という蓮如様の御遺文(おんかきおき)があるかぎり、この三杯の飯のうまい時に 往生の済んだ人が、この世界になければならぬ。
 その人に会いたいという思いが起こってきた。
 それにしたところで、自分はどうもこうも仕様ない。
 夜分ひとり蒲団にしがみついて男泣きに泣いていたこともあった。
 どこで聴聞しても、そこになると知れぬノヤ。それについて段々思案してみたけれど仕様ない。
 命は縮まってくるし、ついに婆さんに相談して、それから路銀を腰に巻いて出かけて行った。・・・・・・・」
 と吉兵衛は、当時を述懐している。
 
 称念寺の住職は、親切に「お前に逢わすお人は大阪の西方寺殿よりほかにない。」と教えてくれた。
 これを聞いた吉兵衛(きちべえ)は、こう言った。
 「そう知らして貰うと、なんでも早う逢いたいものやと思うていた。・・・・西方寺様の御説教が住吉の松岸寺に勤まってあると聞くなり、 何日からやと尋ねると、昨日から三日間の御座であると聞いて、うれしうて うれしうて、我家へ帰って弁当を早うから こしらえて出かけて行った。・・・・・・ 

 西方寺様に始めておめにかかって、一間(ひとま)ほど手前から申し上げたところが、『傍らへ』と仰せ下された。 
 よってジリジリ膝ですり寄って日頃の思いを聞いていただいた。
 『私は死んで行けませぬ。』と申し上げた時に、『死なれたらよいかな。』と仰せられて、『御領解文(ごりょうげもん)通りかえ。』と、 御自分のことは 少しも仰せられずに、御領解文(ごりょうげもん)を差し出してお調べ下された。
 その時、この方こそ私の御知識(仏法の師匠)であると、一ぺんに眼がついたデ。
 私の御知識(仏法の師匠)は こんな者の聞き心まで払うて下されたデ。」
 人格と人格との触れ合いがあってこそ、始めて教えが伝わるのでありましょう。
 
 ここに、領解文(りょうげもん)とあります。少し説明します。

『もろもろの雑行雑修自力のこころを、振り捨てて、
 一心に阿弥陀如来、我らが今度の一大事の後生、
 御助けそうらえと頼み申してそうろう。
 頼む一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、
 このうえの称名は、御恩報謝とぞんじよろこびもうしそうろう。
 この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、
 御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の
 あさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞうじそうろう。
 このうえは、さだめおかせらるる御おきて、
 一期をかぎありまもりもうすべくそうろう。』
  【『領解文』蓮如上人】
 
 『私は、様々な計らいをまじえた
  自力の心を投げ捨てて、
「阿弥陀如来よ。私の来たるべき往生浄土の一大事について、あなたの救いの働きにおまかせします。」
 と一心にお頼み致しております。
 如来におまかせする信心がおこった時、往生成仏する身と決定し、如来は必ず救いとって下さると承知して、その後の称名念仏は、 如来の御恩に報いるものであると、喜びのうちに、お称え申しております。
 この「信心正因・称名報恩」の道理が、聞き分けられたことも、浄土真宗の開祖、親鸞聖人が世にお出まし下さったおかげ、 又、代々、 み教えを受けついでお勧め下さった、よき導き手の方々のお勧めのおかげであると、ありがたく存じております。
 このように念仏申す身となったからには、定めおかれた御掟は、生涯、守り通す所存であります。』
       【「領解文」意訳】

 吉兵衛(きちべえ)は、「死んで行けませぬ。」という大きな疑問を抱えて、僧俗問わず聞き歩いたのでありました。
 そんな吉兵衛(きちべえ)の、西方寺 元明師(さいほうじ げんみょうし)に対して、「死んで行けませぬ。」という疑問に対して、西方寺 元明師は、 『死なれたらよいかな』と答えています。
 その後に、吉兵衛は、「こんな者の聞き心まで払うて下されたデ。」と言っています。
 吉兵衛(きちべえ)は、何か自分の心の中に、これで大丈夫という確かなものが得たかったのではないでしょうか?
 この話は吉兵衛(きちべえ)さんの個人的な話だけではない、誰れにも共通する一面があると思っています。
 それを見抜いた西方寺 元明師(さいほうじ げんみょうし)は、吉兵衛は、自分の心に、これなら大丈夫という確かな何かが得たかった、それが 「死んで行けませぬ。」という問いになっていたのを見抜いた元明師(げんみょうし)は、吉兵衛の言葉をそのまま使って、言い返したのではないでしょうか?
 「あなたは、自分の心に何か確かなものが得たい、これで死んで行けるというような確かな何かが得たいと思っているようだが、 自分の心は、常にフラフラして、あてにならないものではないか。 そんな動き通し、変わり通しの自分の心が確かになったとしても、そんな安心が何の価値があると言うのか!」
 そういうことを、元明師は、言外に言い返されているのではないでしょうか?
 吉兵衛(きちべえ)が、「こんな者の聞き心まで払うて下されたデ。」と言われたのはどういう意味でしょうか?
それは、 「私は、今まで、自分の心に何か確かなものが頂きたい、何か得たいと、思ってきた間違いを払って下さって、仏様の方へ心を向けて下さった。」
という意味ではないでしょうか。
 吉兵衛(きちべえ)は、次のように言っています。
『聞けばわかる、知れば知れる。聞こえたはこっち。知れたはこっち。こっちに用はない。聞こえたこちらはおさらばと捨てる方や。
 用というのは我ゃ我ゃと向こうから名乗って下さる。』

 『こっちに用はない。』と言っています。
 私がゼロにならしめられた時、自分が零点になった時、「如来回向のご信心」の百点満点の月は、煩悩の心に照って下さるのである。
浄土真宗の信心とは、「煩悩の手垢のつかない、如来よりたまわりたる信心」である。
この仏心の働きは、私の上にあるけれども、それは、私の物ではないのである。
 
三田源七さんの『信者めぐり』に次のような話があります。
 源七さんは信心 安心に苦しみ、あちらこちらの同行を訪ね歩いた。
美濃の、おゆき同行を訪ね四日間話を聞いたがどうしても判らない。
四日目におゆき同行に別れを告げた。
おゆき同行は、杖にすがって雪の中を見送ってくれた。
一、二町行くと、
「お~い、お~い」と呼び戻され、何事かと思って戻った。
すると、おゆき同行は源七の手を握り、
「源七さん、お前は信心を得にゃ帰らぬと言うたなあ」
「はい左様申しました」
「けれども何処まで行かれるか知らぬが、もしやこの後において、いよいよこれこそ得たなあというのが出来たら、如来聖人様とお別れじゃと思いなされ、
元の相(すがた)で帰っておくれたら、御誓約どうりゆえ、如来聖人様はお喜びであろう」と言った。
源七さんは、その場では何のことやら訳がわからなかった、と後年述懐したそうである。

 やはり、何か自分の心にしっかりしたものを得たいと願うのが、人間の性質というものでしょうか。
 「自分は、もう仏様の心を聞いた。」「自分は、仏様の心を、もう分かった。」「自分は、仏様の心を、もう頂いた。」「自分は、もう仏様の心を得た。」
 こんなことを言っている自分が、実は、知らず知らず、間違いを犯していて、信心病から言えば、重症な状態であることに気づかないでいることがあるのかも知れません。
 他人事ではありません。
 日々、新たに呼びかけて下さっている、仏様の呼び声を聞かないで、自分の心ばかり見ていて、そのことの間違いに気付かない私だったと思う次第です。
 「慢心」、「自分は絶対に正しい。」という気持ちから、「他人に承認されたい。」という心から、無理矢理に自己正当化していく心が根強くあるのでしょうか?
 「他人を許せない。」という気持ちも、裏には、「慢心」と「自分は絶対に正しい」という気持ちの表れなのでしょうか?
 謙虚さがないことが、行き詰まりを招いているのでしょうか?
 いつも、振出しに戻ってしまう、日々、色々な出来事を通して、そんなことを思い知らされます。

 「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。」と蓮如上人は言われています。
『蓮如上人御一代記聞書』
  蓮如上人は、「心得たと思う」人は、実は心得てはいないのだと言われています。
 ここで言う「心得たと思う」人とは、もう自分は「分かった」という思いの中に閉じこもってしまっていることを意味します。
 この人は、自分が得た知識などを頼みとし、謙虚に教えを聞く姿勢を失っているのですね。
 だから、蓮如上人は、自分の知識や力を頼みとするのではなく、阿弥陀仏の智慧に、照らされて、自分は愚かな身だと自覚すべきであるということを伝えようとしているのです。
 蓮如上人の言葉は、仏法聴聞の姿勢を問い直す言葉であると思います。
 私達は、教えを学んでいく上で、「分かった」という体験を持つことがあります。
 しかし、その体験は、もしかしたら「間違い」であるかも知れません。
 問題なのは、それが「間違い」であると、なかなか自分自身では気づけないことなのです。
 他人のことを、間違いと批判することではなく、「自分自身の問題」として味わわなければならないことは当然です。
 だからこそ、謙虚に、仏法聴聞することが求められるのでしょう。
 やはり、しみじみ思いますことは、師匠というものは、一枚上手だということですね。
 吉兵衛(きちべえ)さんは、自分一人では解決できないと、自己に限界を感じたからこそ、良師を求めて旅に出られたのでした。
 絶えず、未知の世界に眼が開かれていく、仏法聴聞の世界であるのに、「私は得た。分かった。頂いた。聞いた。」と思ってしまったら、何を聞いても、 「そりゃそうだ、そうだ。」と思うばかりで、上から目線で見ているだけで、そこには、新鮮味というものがないのではないでしょうか。
 日々新たな、仏様の呼び声に導かれながら、未知の世界に向けて、日々新たに仏法聴聞させて頂きながら、歩ませて頂きたいものです。
 
 西方寺様は、吉兵衛に次のように問いかけておられます。
 「聞いたになっていやせぬか、また聞こえたになっていやせぬか。」と尋ねられたのに対して、吉兵衛は、次のように答えています。
 「聞こえたとも申しあらわすことも出来ませぬ。また、聞こえませんとも申しあらわすことは出来ません。」と答えられています。
  それに対して、元明師は、「その通りであるワイのう。コレ吉兵衛殿、仏法に逢うことは大切ない(大切な、又は大切なこと)ゾエ。」
 と言われています。
 吉兵衛(きちべえ)は、「聞いたとも申しあらわすことも出来ませぬ」と言ったのは、「私の知ったこっちゃない。」という仏様を仰がれた言葉と拝する次第です。
 
 『えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、南無阿弥陀仏の千両役者 私でも』という法語を、説教のご法話で、聞いたことがあります。
 「私のような愚か者を、親様(阿弥陀様)なればこそ、よう呼んで下されたことよ。」という、仏様を讃える気持ちを、 「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」と表現されているのですね。
 「えらいこっちゃ」というのは、吉兵衛(きちべえ)さんの口癖だったそうです。
 ある時に、誰かが、吉兵衛(きちべえ)さんに、「ご隠居様は、えらいこっちゃ、とはよく言われるけれど、お念仏をあまり称えられないですね。」と言いました。
 それに対して、吉兵衛(きちべえ)さんは、「とうとう私の欠点を見つけたなあ。しかし、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、というのは、念仏と違うか。」と答えたそうです。
 
 最後に、一蓮院秀存につかえていた広部信次郎という方の、次のような逸話を、共に味わわせて頂きたいと思います。
 あるとき四、五人の同行が、一蓮院の役宅をたずねてきて、御本山に参詣した思い出に、浄土真宗のかなめをお聞かせいただきたいとお願いしたとき、
一蓮院は、一同に、
「浄土真宗のかなめとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」 といわれました。
 すると一人の同行が、「それでは、このまんまでおたすけでござりまするか」 と念をおすと、師は、かぶりをふって、
「ちがう」 みなは驚いて、しばらく沈黙していましたが、また一人が顔をあげて、
「このまんまのおたすけでござりまするか」 とたずねました。しかし師は、またかぶりをふって、
「ちがう」 といったきり、お念仏をされます。皆はもうどう受けとっていいかわからなくなって、お互いに顔を見合わせていましたが、また一人が、
「おそれいりますが、もう一度お聞かせくださいませ.どうにも私どもにはわかりませぬ」 というと、師はまた一同に対して静かに、
「浄土真宗のおいわれとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」
それを聞くなり、その人は、はっと頭をさげて、
「ありがとうござります。もったいのうござります」 といいながらお念仏いたしますと、一蓮院は、非常によろこばれて、
「お互いに、尊い御法縁にあわせてもらいましたのう。またお浄土であいましょうぞ」 といわれたそうです。
浄土真宗の法義を聞くというのは、ただ話を聞いて理解すればいいというものではありません。
また、法話に感激して涙をながせばいいというものでもありません。
煩悩にまみれた日暮しのなかに、ただようている私に向って「そのままを助けるぞ」とおおせくださるみことばを、はからいなくうけいれて 「私がおたすけにあずかる」と聞きひらかねば所詮がないのです。私のたすかることを聞くのが聴聞なのです。

(梯實圓和上「妙好人のことば─わかりやすい名言名句」より)
 
 仏法は、「私のこと」が説かれているのですが、中々そう思えない私がいます。
 み教えを活かすか、自我を主張するか?そのあたりに問題があるのでしょうね。
 仏法のことは、何でも、他人事にして、自分のことは置いていて、互いに、仏法の話をしているような気がしてなりません。
 吉兵衛さんの事などを色々と取り上げさせて頂きましたが、仏法の世界の厳しさ、底知れない自分の愚かさ、と同時に、吉兵衛(きちべえ)さんを取り巻く 何とも言えない温かみのある、仏法の世界を少しでも味わいたいと思う次第です。
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
            
 
*世の中に むつかしいものが     
ただひとつ 自分の阿呆と   
仏の尊さ    
*本願力の大風に 
聞き心まで 拂われて  
*大慈悲力や大智慧力   
誓願力に 抱き取られ   
参れぬものが 参る  
不可思議  
   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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