2020年5月 第103話

朝事*住職の法話

いだかれてあり」
     
 皆さんお元気ですか?諸般の事情で、朝事は、しばらく休止します。(再開する時は連絡させて頂きます。)

☆(みほとけとともに/本願寺の時間)を紹介させて頂きたいと思います。

☆仏さまにいだかれて 九條武子さまの導き  冨井都美子〔本願寺派布教使〕(みほとけとともに/本願寺の時間2005(H17)1月放送)


幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺くんでゐるときは、すこしの恐怖も感じない。
すべてを托しきって、何の不安も感じないほど、遍満してゐる母性愛の尊きめぐみに、跪かずにはをられない。
いだかれてありとも知らずおろかにも われ反抗す大いなるみ手に
しかも多くの人々は、何ゆゑにみづから悲しむのであらう。
救ひのかがやかしい光のなかに、われら小さきものもまた、幼児の素純な心をもって、安らかに生きたい。
大いなる慈悲のみ手のまゝ、ひたすらに久遠のいのちを育みたい。
――大いなるめぐみのなかに、すべてを托し得るのは、美しき信の世界である。 ((大谷嬉子偏『九條武子 無憂華抄』78頁 浄土真宗本願寺派仏教婦人会総連盟)
 
 今読みました文章は、九條武子さまの詩集『無憂華』の中にある、「幼児のこころ」と題した文章です。
幼児がお母さんに抱かれてお乳をふくんでいるときは、不安を感じません。
子どもが母親にすべてを托しきっているのは、母親の愛情によって獲られているからです。
ところが私の人生を振り返りますと、どろどろの悩みに埋没して、真っ暗闇をさまよい続けるばかりです。
私のことを常に案じてくださっている阿弥陀さまのお心に気付くこともなく、まるで阿弥陀さまに反抗しているような生き方をしている私です。
少し、私の話をします。夫と結婚して寺での生活が始まりました。最初の2年間は解らないことだらけで、空回りばかりをしておりました。
寺のことを一生懸命に覚えようと思えば思うほどしんどさは増し、その苦しさからいよいよ「死にたい」と思うほどでした。
今思えば浅はかな考えでしたが、そのときの私の精神状態は、前にも進めず、後にも引き返すこともできず、そのまま留まることも出来ない、出口のない真っ暗闇をさまよっているような状態でした。    
その苦しさから逃れるために、死ぬことばか考えておりました。
と言いましても、愛する夫やまだ幼かった子ども達を遺して、自ら死ぬなどとんでもないことです。
そして、何よりも私の「死にたい」という逃避願望を留まらせてくれたのは、私を産んでくれた母の存在です。
母は大変苦労して、私や私の兄弟姉妹を育ててくれました。
お参りのときに鳴らすお鈴を作る仕事をしていましたが、それは大変な重労働でした。
母の仕事を間近に見ながら育った私は、あの汗と涙の日々を生き抜いた母の背中と、必死に育ててくれた母の心を思うと、死ぬことはできませんでした。
そんなギリギリの思いの中で、出遇ったのが親鸞聖人の教えだったのです。

超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ 十方の如来は衆生を      一子のごとく憐念す(『浄土和讃』)
というご和讃のお言葉に、はっとさせられました。
ああそうか、母が子をしっかりと抱いているように、私が気付く前からもう既に阿弥陀さまは私を抱きとめて、私のことをひとり子のようにいつも案じ続けて下さっていたのですね。
「かけがえのない存在だということに気付きなさい。あなたを見護り続けているから、安心してあなたの人生を生き抜きなさい」と、呼び続けて下さっていたのです。
母と子が一体となるように、阿弥陀さまと私の心も一体となって安心の日々が広がっていきました。
阿弥陀さまの存在に気付くまでの私は自分の力が絶対と信じ、それゆえに困ったことに出合うと、思うようにならない現実を前にして焦るばかりでした。   
そんな私だから周りに目が届かず、私がどれほど多くの人々や多くのものに包まれてあるかを考えず、おかげさまに気付いていない生活を送っていたのでした。
でも、阿弥陀さまのゆるぎないお心に包まれている私であったと気付いたとき、今まで見えなかったものが見えてきました。
いつも私のことを案じ続けてくれていた夫の心。いつも慕ってくれている子どもの心。
ガンコなばかりだと思っていた夫の父親の心。
花も鳥も空も海も、私を囲むすべてのものの存在が見えてきました。
そして、人生の苦しみ、悲しみ、辛さのすべてが、阿弥陀さまと出遇うご縁となっていたと気付いたのです。
悩みの中にあると、死を考えることがあります。
でもそんな辛い思いの中で、この放送を聞いている方には、どうか思い留まって欲しいのです。
あなたは、あなたひとりではありません。あなたのことを心から案じて下さっている方がいらっしゃいます。
「南無阿弥陀仏」と声に出して称えてみてください。
静かに目を閉じて、九條武子さまの詩を今一度味わってくださったら、きっと大いなるみ手に包まれている私であったと気付くことでしょう。 
いだかれてありとも知らずおろかにも 
われ反抗す大いなるみ手に  
◎西本願寺の時間  山口放送の放送時間:毎週 日曜日 朝6:00(山口《愛媛・島根・広島一部》)  
◎WEB-ラジオ   http://webradio.hongwanji.or.jp  (Webラジオ「みほとけとともに」) これまでの放送分はインターネットで!☆
 
 少し長かったですけれど、私自身が大変感動した法話でしたので、思わず紹介させて頂きました。
このご法話の中に、
九条武子さまの言葉に
「幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺くんでゐるときは、すこしの恐怖も感じない。
すべてを托しきって、何の不安も感じないほど、遍満してゐる母性愛の尊きめぐみに、跪かずにはをられない。
いだかれてありとも知らずおろかにも われ反抗す大いなるみ手に
しかも多くの人々は、何ゆゑにみづから悲しむのであらう。 ・・・」
 とあります。

 私自身、仏様に今・現在、この煩悩のままで、罪業深重のままで、抱かれているのですね。 
 仏様の心を「光明無量・寿命無量」といいます。
「限りなき 大空の智慧」「限りなき 大海の慈悲」と言われた先徳もおられました。
 あまりに大き過ぎる心なので、分からないのでしょうか?
 ある本に書いてあった話ですが、
「ある小さな島に、大きな巨大な船が、どういうわけか、島の側を通った、しかし、その島の人たちは、誰一人、その船を見なかった。」
という話です。
その島の人たちは、そんな巨大な船というものを、今まで、一度も見たことがなかったのですね。
 だから、いくら、側に巨大な船が居ても、気づかなかったというのですね。
 人間は、今まで見たことがないものは、分からないということでしょうか。
 仏様の大きな心に、私自身が、中々気づけないということを、暗喩しているように思えてならないです。
 つまり、仏様の心を太陽に例えるなら、それに比べて、私の心は、小さな蝋燭のような心というこなのでしょうか?
 
 親鸞聖人は法然上人に出会われ、
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」
と言われました。
 
この言葉は、関東から命懸けで訪ねてきた人達を前にして、親鸞が語られた言葉です。
彼らは、本当にお念仏で、阿弥陀仏の浄土に生まれることができるのだろうかと不安になり、疑って訪ねてきたのでした。
ある先生が言われました。
 「浄土真宗の教えを30年間聞いてきたけれど、いまだに、よく分からない自分が、ここに居る。
そういう思いの全てを、一度、阿弥陀さんに、ぶつけたらどうか!
(阿弥陀様は、私の親様なんだから、水臭い関係ではないのだから、)何でも聞いたらいいじゃないか。
私は、こうして真宗の教えを長年聞いてきましたけれど、いくら聞いても何ともなりません。
お浄土へ参れるような気もしません。
こんな私を、阿弥陀さんは、どうしてくれるのか!」
と、阿弥陀さんにぶつかっていかなければならないと。
 そしたら、阿弥陀さんは「お前が地獄に行くのなら、阿弥陀も一緒に地獄に行こう。」と言われるぞ。
 そんなことを言って下さいました。

 元々、お浄土へ参れると思う方がおかしい私でありました。
 心は、「貪欲」「怒り」「愚痴」といわれる「三毒の煩悩」が溢れ、一時も消えません。
 思いは、妄念ばかりで、仏様の太陽の光と比べたら、蝋燭のような小さな光が私でした。
 光とも言えない、「闇」といえばいいのでしょうか?
 仏様の「百万点」に対して、「零点」、いいや、「マイナス」つまり「闇」でありましょうか?
 そんな私が、お浄土へ参りたいと、当たり前のように思って、仏法聞けば何とかなると、思っていたことに気付かれ、自己の傲慢さに恥ずかしくなります。
 しかし、親鸞聖人、法然上人は、「そんな煩悩の私だけれど、どうしてもお浄土へ参りたい。迷いの世界を離れて、悟りの世界に行きたい。」
そういう強い願い「願生心」を持たれました。
 私も、お浄土なんかに生まれられるわけがない自分だったと、落ちついている場合ではなく、こんな私がどうすれば救われるのか!?
そういう問題提起を、自分自身に起こすべきでありますよね。
 しかし、み教えを聞かせて頂く中で、その問題は、私が起こすより、先に、仏様の方が、私に先立って問題にして下さっていたことに気付かされました。
 私に先立って、この私の救いの問題を仏様の方が問題にして下さっていたことを、「歎異抄」に、次のように説かれています。
『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。』
「阿弥陀仏が五劫思惟し発(おこ)された本願をよくよく考えてみると、ひとえに親鸞一人のためであった。」という意味です。
親鸞さまの言葉は「されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と続いています。
「されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、 おもいしらせんがためにてそうらいけり。まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。」 と続いています。

 この煩悩だらけの私が、どうしたら救われるだろうか?ということを、阿弥陀様は、五劫(ごこう)という気の長くなるような無限の間、 考え、思惟(しゆい)して下さったというのですね。
 親鸞さまは、20年に及ぶ長い比叡山での学び、修行の中で、どのように努力しても、自分中心の心をなくすことができませんでした。
そして、自分が変わることのない凡夫であることに気づかれます。
凡夫というのは、「我が身が可愛い。自分が一番可愛い。」という性根から離れることのできない私ということです。
そのような自分に気づかれた親鸞さまは、法然を訪ねます。
そのときに聞いた言葉が、 「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」の言葉です。
それは、親鸞が29歳の時のことでした。
 親鸞さまは、法然上人のことを、「よきひと」と言われています。
 法然上人の人格に接して、法然上人を通して、凡夫を救おうとして、呼びかける阿弥陀仏の大悲の心に目覚められたのです。
 親鸞聖人が「よきひと」とおっしゃったのは、法然上人という単なる一個人の言葉ではなく、 法然上人を通して、本願に出遇われたということです。
阿弥陀仏の大悲心とは、どんな人も、えらばず、嫌わず、見捨てずという心です。
私の心は「好き嫌い」ばかりの心です。
 ある先生は「好き嫌いは罪やでえ。」と言われました。
 
 仏様の心は無限大ですね。
 お経には「無蓋(むがい)の大悲」と説かれています。
「無蓋(むがい)」とは「蓋(フタ)がない。」という意味です。
 「無限」ということです。
 親鸞聖人の和讃に、次のような和讃がございます。
 
『願力無窮(がんりきむぐう)にましませば
 罪業深重(ざいごうじんじゅう)もおもからず
 仏智無辺(ぶっちむへん)にましませば
 散乱放逸(さんらんほういつ)もすてられず 』
      【「正像末和讃」】              
 
「阿弥陀仏の本願のはたらきはきわまりないので、深く重い罪が重すぎて、救われないということはない。
阿弥陀仏の智慧のはたらきは広大無辺であるから、散り乱れた心で勝手気ままな行いをするものであっても見捨てられることはない。」
      【現代語訳】
 
 「無窮(むぐう)」とは、「極まり(窮まり)が無い」という意味です。
 「無辺」とは、「無辺際(際、辺が無い)、限定が無い
(無限)」という意味で、いずれも「無限」ということですよね。
 
 「散乱放逸」とは、散り乱れた心で勝手気ままな行いをすることです。
 親鸞聖人は、「散乱放逸」の左側に小さい字で註釈を加えて下さっています。それを左訓「さくん」と言います。
それによりますと、
「散り乱る、ほしきまゝのこゝろといふ」
 とあります。
 散り乱れた悪い私の心を嫌わず、浄土に参らせていただけるというのです。これが「散乱放逸もすてられず」の意味です。
 「捨てられず」と言われて、ますます慎むことが大切になってきますよね。
何事も、「仏様のみ心」に相談しながら、生きていく、「仏法中心」の生活でありたいものです。
 
 どんなに反抗しても、どんなに逃げても、どんなに罪深くても、私がどのような状態であろうとも、大きな心で抱き、支えて下さる世界があるのですね。
『いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に』
          九条武子(『無憂樹』) 
 大きな阿弥陀様の願い・働きに出会われた親鸞聖人は、
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」
と言われました。
 
 「ただ」という言葉は、無限の奥深さがあるような気がします。
 
 「正信偈(しょうしんげ)」にも「唯(ただ)」という言葉が、何回か出て来ます。
 最後に「正信偈」の中の「唯」という言葉が使われている箇所を、紹介して終わらせて頂きます。
  
*「唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)」
「ただ阿弥陀如来の本願(第十八願)をお説きになるため」
(現代語訳)  
*「唯能常称如来号(ゆいのうじょうしょうにょらいごう)
「ただよく常に阿弥陀如来の名号を称えて」 (現代語訳)
*「正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)」
「お浄土に往生し、仏となるべき身に定まるのは信心ひとつである」(現代語訳)
*「唯明浄土可通入(ゆいみょうじょうどかつうにゅう)」
「 ただ往生浄土の教えこそが仏さまの覚りを得る道であると明らかにされた」(現代語訳)  
*「極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)」
「 極重(ごくじゅう)の悪人は、ただただ念仏をしなさい 」
(現代語訳) 
*「唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ」」
「 ただよくこの高僧がたの説かれたことを信じなさい 」
(現代語訳) 
 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』



☆☆☆法語☆☆☆      
                                                 
               
 
*生も死も 仏と共に 旅の空     
*み仏と 袖をつらねて 勇ましく   
生死の旅を ゆく楽しみは    
*慶ばしい哉 心を弘誓の仏地に樹て 
念を難思の法海に 流す  
*釈迦 弥陀は 尊い なつかしい   
慈悲の父母である   
*極大慈悲母(阿弥陀如来のこと)  
*如来は 尊い尊い 親様と  
云う事が 分かったら    
後生の事は 大安心  
*信心が 欲しい欲しいの    
耳慣れ雀    
いくら聞いても あかんぞよ  
*このまま そのまま と云うても    
如来様の尊い事が 分からぬ   
このままは 何にもならぬ    
   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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