2020年3月 第101話

朝事*住職の法話

真理しんり
     
  実相身(じっそうしん)、 為物身(いもつしん)という言葉があります。
 実相身(じっそうしん)とは、真如実相にかなった自利円満の仏身のことです。「真理の身」ということです。
これに対して、衆生(物)のために利益をほどこす利他円満の仏身を為物身といいます。
曇鸞大師(どんらんだいし)は、この実相身・為物身によって阿弥陀仏の性格を明らかにしています。
それは阿弥陀仏の仏身の全体を指して実相身とし、同時にまた為物身とするものです。
それは、阿弥陀仏の正覚は単に仏自らの為のものではなく、衆生救済の為に成就されたものであることを示しています。
 為物身とは、「私の為の仏様」という意味です。
 真宗の信者の方が、阿弥陀様のことを、「親様」(おやさま)と言われることがありますよね。
 「私の親様」それが「為物身」ですね。
 しかし、それは、ただ単に感情的なものではなくて、「真理の身」である阿弥陀様が、「私の親様」となっているということです。

 ある浄土真宗の御門徒のお婆さんがおられました。
 私のお寺の近所の有難いお婆さんの仏法の友達でした。
 仮にAさんとしておきましょう。
 この方は、もうお亡くなりになられましたが、自分の方が長い間、仏法を聴聞してきているのに、他の信者の方々の方が、自分より先に 有り難い信者になられて、ありがたい言葉を言われるので、嫉妬していた方で、私は、少し僻んだような、この人間臭い、正直なお婆さんのことが、何故か好きでしたね。
 
 そんな嫉妬心や競争心は、私にも、身に覚えがあるのですね。
 私は、いざ、相手と言い合いになっていくと、話の内容よりも、「絶対に相手に負けたくない。」という気持ちの方が強くなったですね。
 仏法の話の内容はどうでもいい、私が勝っていくことの方が大事でしたね。
 それに命を懸けていました。
 実際、仏法の話の内容より、自分が勝つことの方が大事だったのですよ!
 恥ずかしい事です。
 「随分と相手にも、不快な感じ、嫌な思いをさせたことだろうなあー!」
 今、懺悔の思いが湧いてきます。
  仏法について、又世間話でも、何の会話でもいいけど、ただ勝ち負けだけを気にする会話は、 実に不毛で、忍耐だけで、その言い合いからは、何も産まれてこない。
 ただただ虚しい気がしますね。
 私自身がやってきたことです。
 しかし、結局は、そういった自分が蒔いた種まきが、色々な形で、現在の自分に返ってきている気がしますね。
 それが、自分の種まきとは、中々思えませんでしたが、そこには、中々厳しいものがありますね!
 しかし、凡夫と言いながら、他人のことは何でも見えるけれど、自分の姿は中々見えない凡夫の悲しい性だと思いますね!
 ある人は、いつも、他人のことを批判ばかりする人で、その批判の内容を聞いていると、全てその人が常にしていることだったということがありましたね。
 これには、考えさせられましたね。
 簡単に笑えないものがありますよ。
 「他人のことが阿呆に馬鹿に見える」ということは、ある意味で自分が「高上り」していて、「危険な状態」なのかも知れません?
 また、いつまでも他人の言ったこと、やったことに対して、腹立てて、とらわれ悩んでも仕方ないですよね。
 他人がそういう態度をする裏には、自分にも原因があるかも知れませんしね。
 「恩は忘れず、恨みは水に流せ。」という仏陀の言葉もありますよね。
 実際には、中々難しい事ですけれどね。
 ある尊敬する人が言われました。
 「人生で大事なのは金ではなく、人脈だ。人脈は自分では作れない。自分自身を磨かないと出会えない。信用が大事だ。 受けた恩は忘れるな。他人にされた嫌なことは忘れろ!」
 金は必要だし、大事でしょうけれど、金の奴隷になるなという意味でしょう。
 他人に言われた酷い言葉は、「つまらんことは、忘れてしまえ!」ということですよね。
 せいせいするような言葉だと感じます!
 その人は、見た目はとても強い方ですが、「自分も弱い人間だし、人生の色々な問題に悩んでいるんだ。」と言われ、又、弱い者の味方の方ですね。
 その方は、妻や子を大事にして、常に、妻子に感謝している方みたいです。
 「自分がこうして活動できるのは、常に妻子のお陰だ。」と常に、妻子に感謝している人みたいですね。
 強いだけでなく、やさしい方ですね。
 見習いたいものです。
 しかし、今更ながら、人間というものは、どうしようもないものを抱えていると感じますね。
 悪い性格だと思って、すぐに直すことが出来るのなら、何の苦労は要りませんよね。
 そんな生易しい私の性根ではないですよね。
 他人に注意されて、すぐに性格が変われると思うなら、それはあまりにも人間のことを知らないということになりますよね。
 しかし自分の悪い事に気づけば、少しは違う方向に向いていくことはあるようで、それが大事ですよね。
 「気づかない」ということが一番始末が悪いことだと思います。
 理想的には、「勝ち負け」ではなく、「共に目覚めていく、共に気づいていく、共に成長していく」
 そんな瞑想的な時間を大切にしたいものですね。
 寺で御講師様のご法話を、皆と一緒に、共に聴聞することも、そんな瞑想的な一時なのかも知れませんね。

 仏様の呼び声が、聞こえて来た人には、聞こえた「しるし」のようなものがあるそうです。
 「私はこれだけ聞いてきたんだ。」という態度は、仏様の呼び声が、実際には聞こえていない「しるし」なのですよね。
 「私はこんなに仏法を聞いてきた。」なんていう態度や考え方そのものが、自我そのものですよね。
 そこには、「有難い」「勿体ない」「尊い」「恥ずかしい」という感じはありませんよね。

 蓮如上人が「宿善有難し」と言われています。
 「宿善」(しゅくぜん)とは、「過去からの仏様の照育」ということです。
 「過去の聞法」という意味も含んでいます。
 考えてみたら、仏法を聴聞するということは実に不思議なことですね。
 本当に不思議なご縁で仏法を聴聞しているのですよね。
 「仏法」そのものが「仏様」だそうですね。
 「仏様の教え」そのものが「仏様」だそうですね。
 「仏法」を聴聞してきたということは、「仏様」に出会い続けて来たということだそうですね。
 それは果たして自分の力で、自分が、自分の心掛けが善いから、自分の心の殊勝さで仏法を聴聞してきたのでしょうか?
 ついつい、自分の力で仏法を聴聞してきたんだと、そんな気がしてくるんですよね。
 それを厳しく誡めているのが無我の「教え」というものですよね。

 光は、ものの相(すがた)を明らかに照らし出します。
 光に照らされることにより、ものの真実の姿が見えてくるのですね。
 そんな、仏様に照らされて、見えて来る自分の姿を思えば、どうして自分の殊勝さで、仏法を聴聞していると言えるでしょうか?

 「仏法を聴聞することまで、仏様の力である。」
 それを蓮如上人は「宿善有難し」と言われるのですね。
 最初に、「実相身・為物身」ということを言いました。
 その「為物身」という、「物」という字は、「衆生」という意味なんですね。
 「私の為の阿弥陀様」ということですよね。
 それは単に人情的な意味で言われるのではなくて、その裏には「真理」というものがあるのですよね。
 それが「実相身」つまり「真理の身」ということです。
 真宗の信者の方が、「私の親様」と阿弥陀様のことを味わい深く、慕われるけれど、「私の親様」の裏には、「真理」というものがしっかりあるということです。
 ただ単に感情的に酔いしれたものではないということではないでしょうか?
 「真理」とは、感情的なもの、人情的なものではないのではないでしょうか?

 先ほどのAさんは、長年仏法を聴聞してきたけれど、自分より遅く聞き始めた友達の方が先に深い信心の心境に入っていたことに嫉妬心を感じておられたました。
 しかし、亡くなられる前に、病院に入院されて、仏法の先生が見舞いに行かれると、こう言われたそうです。
 「私にも親様がございました。」と、Aさんは言われたそうです。
 「私にも親様がございました。」という言葉はどういう意味なのでしょうか?
 「今までは、他の信者が、自分より先に深い信心の心境に入っていかれるのに、私は長年聞いているのに、少しもそういう気持ちにならない。」
 それで、情けない気持ちになっておられたのですね。
 「しかし、そうではなかった。他の人に阿弥陀様がついておられるように、私にも阿弥陀様はついておられました。私の親様でした。」
 そういう意味の言葉ではないでしょうか?
  
 如来の光によって照らし出された自身について、 親鸞聖人しんらんしょうにんは、
『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』で、次のように説かれています。

『凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲(よく)もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、 ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河(すいかにが)のたとえにあらわれたり。』
と、言われています。
 この「無明」の世界に目覚めさせる「はたらき」こそ、如来の光明なのです。
 光なるが故に、闇を破るのですね。
 闇は、闇自身で破ることはできませんが、光に遇うことにより、闇は破られるのですね。
 しかし、地獄のような深い闇でも、一筋の光により破られ、照らし出されるのですよね。
 仏様の鏡に、私の相(すがた)が映されるのです。
 「地獄も阿弥陀様の領分だ。」と言われた先徳がおられました。
 それは、地獄の底まで光が届いているという意味です。
 「み仏の鏡に映るわが姿」
 「落ちる私と知らされる。助かる私と知らされる。」
 そんな先徳の法語も思い出しますね。

 私は、自分の浅ましい煩悩の姿に驚いて、「こんな浅ましい心が起こるようであるのなら、いくら阿弥陀様でも、愛想つかされて、救われないのではないのか?」
 そんなふうに、阿弥陀様の救いに対する疑いが湧いてくることもありました。
 勿論、生活態度は、出来る限り慎ませて頂かなければいけないと思います。
 「凡夫なんだから、何しても構わん。」と、自分の煩悩の生活をほしいままにすることも間違いですし、「こうでなければならない。」ということも、 理想的には大切だと思いつつ、少し無理があるような気もしますけれど、如何でしょうか?
 しかし、「何をしても、凡夫なんだから構わん。」と思って自分の好き勝手にしていると、新たな悪い種まきをしていることになります。
 そして、その結果は自分自身が受けないといけなくなりますよね。
 「煩悩があるのだから、何でも悪い事しても構わない。」「こうしなければいけないのだ。」
 この両極端な態度を離れることが説かれ、教えられているようです。
 そんな私の深い闇を貫いて、仏様の声が聞こえてくるのです。
 その仏様の声に驚いた私が、「南無阿弥陀仏」と称ぜしめられるのです。

 「煩悩の闇は、お念仏に遇うためのご縁である。大切な闇であった。」と味わわれた方もおられます。
 深い言葉だと思います。
 今までの、「こんな私では、いくら阿弥陀様でも愛想つかされるのではないか?」という思いから、 「こんなお粗末な私を、親様なればこそ、ようこそお救い下さることよ。」と、「勿体ない」という気持ちが湧いてくるように変わっていくのでしようか。

 ある先徳は、
「名号は、私たちの欲の心や、腹立つ心や、悲しむ心や、憂える心をして転成せしめます。」と説かれています。
 「親鸞聖人しんらんしょうにんの歩み方は 浄土の光を身に頂いて、この人間世界の苦悩に堪えてゆくことでした。悲しむことも、つらいことも、そのまま名号に転成せられて、 功徳となり、それで一生の終わりには、涅槃を悟らしめられるのです。
 人生の一歩一歩が苦しみであり、悩みであり、悲しみです。
 その苦しみ悩み悲しみの一歩一歩が仏道です。
 日々の生活におけるあるがままが名号によって仏道となります。
 そういうところに如来をなつかしみ、如来の御国である浄土を思うということにおいて、深い力を感じられたのが親鸞聖人でした。
 つまりあの世を思うて、この世を忘れるというようなことではなく、どこまでも現実を見つめ、現実に従いながら、 涙の中にも、ほほえみを見出し、苦しみ中にも喜びを見いだしてゆくというところに、名号をよろこぶ姿があります。」
と説かれています。

 ここに、人生のあるがままが、名号によって、「転ずるはたらき」が説かれています。
 「あるがまま」と言いますが、勿論、何でも、あるがままだから、社会の問題も何も変えなくていいんだ、ということではなくて、 社会的に不当なことは、そういう面から改革されていくべきでしょう。
 「あるがまま」とは、「何でも、受容して、諦めなさい。」という意味ではないはずです。
 そういう社会の不当な面に目を向けて、共に考えていくことが、「共に救われていく」御同朋、御同行の姿でありたいものです。
 世の中の問題、姿に無関心という態度ではいけないでしょう。
 親鸞聖人も流罪(るざい)という不当な目に会われ、それに対しては、信念をもって強く抗議されておられます。

 親鸞聖人が源信和尚の教えから、阿弥陀さまのはたらきを讃えられたご和讃に次のような和讃がございます。
 「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
     大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」  「私たちは煩悩に眼(まなこ)をおおわれて、摂取して下さる阿弥陀如来の光明を見ることが出来ないけれど、 大悲の阿弥陀如来は少しも厭きることなく、常に私たちを照らし護って下さっている。」
という意味です。
 まさに、夜の闇が一射の光によって明ける如く、私の煩悩の闇は、如来の智慧の光によって明けるのです。
 そんな暗闇に稲妻の光線が一瞬の間に貫いたような、そんな感じがこの和讃から感じられますよね。
 

 この『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』の
『欲(よく)も多く、怒り、腹立ち、そねみ、妬むこころ多く、』
 という言葉は、日々読み、味わっているうちに、段々と、「これは確かに、私自身の事を説かれている。」 と感じさせられてきます。
 それが御聖教(おしょうぎょう)の言葉の力というものなのでしょう。
 釈尊、高僧、 親鸞聖人しんらんしょうにんの書かれた言葉に遇うことは、そのまま仏様の心に遇う事、 それは「仏様に遇うこと」なのでしょう。
 御聖教に親しむと、仏様の言葉に触れていく中に、知らないうちに、導かれていくものがあるようです。
 あるご住職は、親しい同行に、「御聖教を読みなさい。私の遺言だ。」と言われたそうです。
 この住職の逸話を聞かして下さった同行は、「私は住職に御聖教を読むことを勧められ、実行しています。」と告白されました。
 九十歳位の同行でした。その意欲に驚かされますね。

 『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』に説かれている言葉の中に、 「欲(よく)も多く、怒り、腹立ち、そねみ、妬む心多く」と説かれています。
 親鸞さまは、御自分のことを言われているのでしょうが、これは私自身の姿そのものでもあります。
 こんな心が、「ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と説かれています。
 一日の生活の中でも、一日中、煩悩が渦巻いていると感じますね。
  
 この中で、「妬み」(ねたみ)ということが説かれていますね。
 「妬み」(ねたみ)、嫉妬心のことですよね。
 この心は実に根深いと思いますよね。
 男性にも、この心は強いですよね。
 出世競争、ポスト争い、なんていうのも、まさに嫉妬心ですよね。
 「嫉妬する。」
 「あの人はいいよなあー。」と、羨ましいと、嫉妬する、妬む。
 本当は、そんなこと思っても何にもならないのでしょうけど。
 徒にエネルギーを浪費しているだけですものね。
 しかし、「羨ましい」という感情も中々根深く、強いものがありますよね。
 こんなことを思っている時は、「自分自身が、自分自身から離れている」と言いますか、自己疎外(じこそがい)という事になっている気がします。
 比べている時は、「私自身が今こうして、ここに生かされている。かけがえのない命を頂いて、今、ここに在る。」 という尊い事実が見失われている気がします。
 そんなことばかりに、人生のエネルギーを費やすことは、時間も労力も、もったいないことですよね。
 「共に目覚めていく、共に気づいていく、共に成長していく」
 そんな瞑想的な時間を大切にしたいものです。
 寺で、皆と共に、一緒に、御講師様のご法話を聞くことも、そんな瞑想的な一時ではないでしょうか?

 「比べる」ということは罪だそうですね。
 お経にそういうことが説いてあるそうです。

 以前に、ある男性の人気歌手の方が、雑誌のインタビューの中で、 「最近は、若い子が歌手として、活躍している。そのことが学生に余計なストレスを与えているのではないだろうか?」
 そんな提言をされていたことを思い出します。
 鋭い指摘だと思いますね。
 「自分はただの学生なのに、あの子は、歌手として、華やかな舞台に立ち、スポットライトを浴びて、芸能界で活躍している。」
 そこに「比べる」という煩悩が起こっているということでしょう。
 確かに、夜空に光る星のような『スター』には、輝きがありますよね。
 人を喜ばせる何かを持っていますよね。
 魅力がありますし、人がそのスターの周りに集まっていく不思議な磁力のようなものがあるようですね。
 人が寄って来るのには、それなりの理由があるのでしょうね。
 そんなスターに憧れを持つ若者がいても、不思議ではありませんよね。
 私も、夜空に輝く星『スター』が好きですね。
 輝いているところがたまらなくいいんですよね!
 「その輝きはどこから来る輝きなのかなあ?」と思います。
 ファンを大切に思う気持ちでしょうか?
 「他人を喜ばしたい。楽しませたい。」というパーフォーマンスは人を魅了しますね。
 「スターのエンターテイメントは、凄いなあ!素晴らしい!」と思いますね。

 しかし、大事なこと、忘れたくない事実は、ただ徒に他人を嫉妬したり、羨ましいと思うよりも、私が私自身で、満足する、「自体満足」ということでしょうか?
 そういう、今、ここに生かされている自己の命の尊さ、有難さという事実を、もっと仏様の教えに照らされて、見つめたいものです。
 たとえ、死ぬまで煩悩の無くならない身であっても、仏様に照らされ、見つめられ、護られ、導かれている尊い、有難い命なんだという事実を忘れたくないものです。
 そんなことを、この親鸞聖人しんらんしょうにんのお言葉に教えられる気がします。
 「真理」というものは、一部の勝れた人に対してだけでなくて、どんな人間にでも、平等に救いの働きをするものではないでしょうか?
 「真理の身」の阿弥陀様ということについて味わわせて頂きたいと思った次第です。
 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』

☆☆☆法語☆☆☆      
                                                 
         
 
*ひとりの子供が     
病に かかったとき   
父母の愛は    
不平等なわけではないが
 
やはり この病んだ子に  
深く かたむく   
釈迦如来も また  
大衆に対して  
 
その慈悲は     
不平等なわけではないが   
やはり 罪深い人間に    
 
深く かたむく     
【涅槃経】   
    
   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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