2020年2月 第100話

朝事*住職の法話

仏説ぶっせつ
     
 仏教は「迷い」を転じて「悟り」を開く教えであると言われています。
 「迷えるものは、道を問わない。」と言いますが、この自分自身が迷っているなんて、中々思えないものですよね。
 「自分は正しい。」と自負して生きています。
 他人から、少しでもケチをつけられたら、「私の何がおかしいのか!」と食ってかかるような私です。
 そういう私の姿は、実は、「迷い」を「迷い」と知らず、この世の欲望や、栄華を貪り、欲望の巷を駆け回っているのでしょうか?
 欲望というものに、振り回されて、影法師のような夢を見ているのが私なのでしょうか?
 「迷い」の本は「無明」(むみょう)で、「我愛・我執・我慢」であり、この我愛・無明から、欲望と、怒りと、邪見が生まれてくると説かれています。
 『我愛・無明から、生まれてくる、欲望と、怒りと、邪見を「煩悩」(ぼんのう)といい、この煩悩から種々の罪悪を生み出す。』と説かれています。
 「煩悩の結果は苦しみである。」と説かれています。
 「人生は苦なり」という教えは、「煩悩の結果は苦なり」ということなのでしょうか?
 「人生は苦なり」と本当に悟った人が、仏法によって、その苦しみを解決する方法を見つけることが出来るということなのでしょうか?
 
 「苦悩を苦悩として生きるところに 人間の深さと光が宿る」という言葉を見たことがあります。
 この言葉をよりどころとしている方がおられるのだなあーと思いました。
 「横川法語」(よかわほうご・源信和尚)の中に、次のように説かれています。
 「妄念(もうねん)はもとより、凡夫の地体(じたい)なり。 妄念(もうねん)のほかに別に心はなきなり。 」と説かれています。
 「人間の思うことは、ことごとく煩悩であり、妄念である。行うことは、ことごとく罪悪である。」という意味なのでしょうか?
 「これでは、あまりに酷い言葉ではないか?人間だって、善いこともするじゃないか!」という気持ちも起こります。
 しかし、これはあくまで仏様の悟りの眼から見られたものでしょうか?
 人間は、たとえ善い事をしても、「我愛・我執」の心で為すことであれば、全て「雑毒の善」(ぞうどくのぜん)「虚仮の行」(こけのぎょう)であり、 涅槃(ねはん)に到ることはできないと説かれています。
 「雑毒の善」(ぞうどくのぜん)「虚仮の行」(こけのぎょう)とは、「私がした。私は善い事をしている。私は正しい。」という 「自我」の混じった善、行い、という意味であります。
 これら、厳しいご教示は、あくまで、「仏様に成る」という目標の面から、説かれている言葉だと思われます。
 凡夫である私が、大切な教えではないだろうとか感じるものとして、皆さんと共に味わいたいと思う次第であります。
 私の個人的な考えで、説いているつもりではないのです。
 長年、仏法を聴聞してきた、有り難い信者のおばあさんが言われたそうです。
 「法話で、僧侶が、自分の考えを言った法話は、あんまり有り難くない。そうではなくて、仏説はいいです。仏説は有難い。」と言われたそうです。

 仏説には、「我」というものがないから、仏様の教えを、そのまま話せば素晴らしいということでしょうか?
 この有り難い信者のおばあさんは、法話している人が、自分の主張、自分の意見で、仏法の解釈を話している場合があることを、敏感に感じておられるのですね。
 「仏説は有難い」という言葉は深みがあります。
 「法話する。」ということで、注意しなければならないことが色々とあると思います。
 その一つは、題材として取り上げられている人の気持ちを考慮するということでしょう。
 法話を聞いた人が不快になるようなことは、出来るだけ避けたいものです。
「自分が題材で話されている。」と感じる時に、あまりに酷いこと言われたら不快になりますよね。
 「お育て」という言葉がありますが、色々と耳に痛いことを聞くことが大事であり、必要なことは分かります。
 「それも、大切なお育てだ。」と言われれば、返す言葉もありません。
 しかし、感情を持っている人間ですから、話の題材として、取り上げられている人間の気持ちというものも、当然あると思うのですね。
 だから、話の題材として、取り上げている人間の気持ちを考慮する、ということも必要であると思います。
 それに、法話というものは、その場で、言い返すことも出来ませんよね。
 そういう意味では、言いっ放しで、フェアーでないという面もありますよね。
 しかし、聞く方も、法話を聞いている自分が、知らず知らず偉くなって、仏様と自分が対等になっているような状態で、聞いていたのではいけないでしょう。
 仏様を敬う恭敬心が大切だとも言えるでしょう。
 「法話は、『仏』の一字を説けばいい。聴聞は、『仏』の一字を聞けばいい。それが中々難しい。」ということなのでしょうか?
 しかし、人間は、どこまでも自分の都合に合う話が聞きたいのでしょうか?
 自我が喜ぶ話が聞きたいのでしょうか? 
 自分のレベルで聞いてしまうことはあると思いますね。
 例えば、人間は、欲望の楽しみはすぐに分かりますが、「涅槃の楽しみ」を説かれても、経験したことがないことは、中々ピンときませんよね。
 「煩悩の結果が苦しみだ。」と説かれても、潔く、欲望を手放すことは難しいことであります。
  欲望のままに、夢の中で夢を追い回しているのが、私という凡夫の姿なのでしょうか?
 人それぞれと言いますが、今、現に色々な苦しみに会っているのが、人間ですよね。
 苦しみに負けないで、自暴自棄にならないで、やけを起こさないで、自分だけのことでなく、 他の同じように苦しんでいる人達の存在があることにも気づき、共に、仏様のみ教えを聞かせて頂きたいものです。
    
 親鸞聖人しんらんしょうにんの言葉を記録した
歎異抄たんにしょう」という書物がございます。
 最初に、次のような言葉がございます。

 「弥陀みだ誓願せいがん不思議にたすけられまいらせて、 往生おうじょうをばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき、 すなはち 摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあづけしめたまふなり。
 弥陀みだ本願ほんがんには、 老少善悪ろうしょうぜんあくのひとをえらばれず、 ただ 信心しんじんを要とすとしるべし。
 そのゆえは、 罪悪深重ざいあくじんじゅう煩悩熾盛ぼんのうしじょう衆生しゅじょうをたすけんがための がんにてまします。
 しかれば 本願ほんがんを信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。
 悪をもおそるべからず、 弥陀みだ本願ほんがんをさまたぐるほどの悪なきがゆえにと、云々。」

 次に、毎田 周一師の口語訳を載せます。

 口語訳(毎田 周一師)
 
 「永遠の 生命いのちの透明な意志の不思議な働きによってこそ、生まれ更わって真理の国へゆくのだと直覚して、 その生命のみ名を(南無阿弥陀仏と)呼ぼうとするとき、もう私達は一人も余さず救われてしまっているのだ。
 その透明な意志にあっては、先輩、後輩、善人、悪人などいうことはどちらだってよい。
 ただこの意志を直覚することだけが求められていると知るべきだ。
 何故かというと、すること為すこと生命を汚し、欲に狂い廻っているようなものをこそ、救おうとされるその意志なのだからだ。
 そこで、この透明な意志を直覚する者にとっては、この世で人としてせねばならぬことは、一つもない。
 そのみ名を呼ぶ以上のことが何処にもないからだ。
 そしてどんな悪いことをしたって、一向心配するには及ばない。
 あの透明な意志のはたらきを鈍らせるほどの悪行を、私達は逆立ちしたって出来ないからだ。」
 
 次に、毎田周一師の解説を載せます。

 解説(毎田 周一師)
 
 『この第一節を如何にして頂くことが出来るか、領解できるか、即ち胸に納得することが出来るか。
  その道は唯一つしかない。 「罪悪深重ざいあくじんじゅう煩悩熾盛ぼんのうしじょう」が自分一個のことだと知ることの外にはない。
 そこからこの第一節は氷解してゆく。
 実に他人事ではないのである。
 そしてこの第一節の決定的な一句は、末尾の「悪をもおそるべからず」である。
 自分がどんなに悪いことをしたとしても叉現在やりつつあるとしても、それから未来に叉どんな悪いことをやるだろうという可能性があつても、 それは一切心配するに及ばないというのである。
 ここに絶対の解放があり、絶対の自由がある。即ち救いがある。
 救いとはかくの如きことである。
 親鸞の語の極致はここに発見されるのである。
 これは叉私達が如何に悪いことをやろうとしても、 如来にょらいの協力なくしては、 一塵いちじんの盗みも出来ないということである。
 一切の悪は如来行である。私達は唯その前に ひざまづくのみとなる。
 何か私達に善を行い悪を行ふ自由があるかなぞと思っている私達の錯覚が、ここに完全に 破砕はさいされてしまう。
 これを無我ともいう。
胸の くような宗教の極致がここにいい表わされている。

 なほこの第一節に於いて注意すべき表現は、 「念仏まうさんとおもいたつこころのおこるとき」という一句である。
 念仏申さんとする思いが私達に きざすとき、最初の 萌芽ほうがを示すとき、そのとき既に救われてしまっているというのである。     
 これは念仏が交換条件ではないことを語っている。
 念仏を となえる代わりに救って貰うのではないのである。
 何故ならばいまここに鋭く指摘されているやうに、念仏申す前に救われてしまっているからである。
 だから私達の口に出て来る 称名しょうみょうは、正に 報謝ほうしゃの念仏でなければならない。
 既に救われし者の救い手に対するお礼の言葉でなければならない。
 自力の念仏などというものが何ものでもないことが、ここに明らかにされている。
 即ち念仏は如来行、全くの他力行なのである。
 このやうにして第一文・第一句に第一語たる 「弥陀みだ」が逆に明らかになってゆく。
 これを第一語たるが故に 「弥陀みだ」とはかくかくのものであると説明した処で、 百千万劫を経てもそれは人々の心に徹するものではないのである。』【毎田 周一師・解説】
 
 毎田 周一師の口語訳・解説を載せさせて頂きました。【「口語訳 歎異抄 毎田周一 海雲洞刊」より】

 なんて言いますか、実に思い切った表現ですね。
 ここに載せながらも、冷や汗が出て来るような感じがしました。
 「歎異抄たんにしょう」という書物が、昔から、 「安心あんじんの書」と言われて来ました。
 また、「行き詰まりの書」であると聞いたことがあります。
 「どうにも、こうにも行き詰って、どうしようもなくなった者の為の書」という意味でしょうか?
 ここに書かれていることは 「両刃もろはの剣」のようなところがあり、うかつに読むと、大変なことになり、 間違う可能性もある書ではないでしょうか。
 よほど慎重に拝読しないと、真意を誤ってしまう危険な言葉だと思われます。
 しかし、こんな言い方も大変失礼なようですが、「毒が薬になる。」という面もあるのかも知れません。
 長い年月に、多くの人たちに読み継がれ、心の支えとなり、現代まで残ってきた書ですから、いい加減な言葉ではないはずだと思うのです。
 ここの解説の中に、
 『この第一節を如何にして頂くことが出来るか、領解できるか、即ち胸に納得することが出来るか。
  その道は唯一つしかない。 「罪悪深重ざいあくじんじゅう煩悩熾盛ぼんのうしじょう」が自分一個のことだと知ることの外にはない。
 そこからこの第一節は氷解してゆく。
 実に他人事ではないのである。』

 とあります。
「実に他人事ではないのである。」とあります。
「私のこと」(私自身の問題)として、味わう時に、この思い切った、きわどい危険な言葉が、煩悩にのたうちまわっている凡夫の私に 何かしら働きかけ、教えて来るものがある気がする次第であります。
 
 しかし、このようなある意味で、激しい言葉を語られた 親鸞聖人しんらんしょうにんという方は、一体どんな方だったのでしょうか?
 親鸞聖人は比叡山ひえいざんで学問修行に励まれた時期もございました。 
追求すべき、仏法の教えは徹底的に求められた方ですよね。
 御開山ですから、当然のことながら、決して、仏法に対して、いい加減な方ではないわけですよね。
 親鸞聖人の周りにいて、親鸞さまの言葉を聞かれた中には、色々な方がおられたことでしょう。
 例えば、「仏法の学問を学びたい。」「どこどこまでも、納得するまで、経典を拝読し、一字一句を正しく解釈していきたい。」 というタイプの方もおられたかも知れません。
 叉、「本当に悟った方に会いたい。その人から、悟りというものを学びたい。」というタイプの方もおられたかも知れません。
 「仏法という道がある。」と知っているだけでなく、「その仏法という道を本当に会得している人に触れたい。」と願う人もおられたことでしょう。
 私の寺には、親鸞聖人の「熊皮の御影」(コピー)というものが本堂に掛けてあります。
 昔の光西寺の総代長が寄贈されたものです。
 本堂にお参りする度に、「熊皮の御影」を見ますが、親鸞聖人のお顔というものは、実に深いといいますか、 こちらの尺度では計れないような感じが強くするお顔だといつも思いますね。
 ニコニコとして、いつも笑顔の優しいお方という感じはしませんね。
 むしろ、どこか突き放したような感じで、もっと深い所から、私達を見ているような感じのお顔に見えます。
 又、熊の皮の上に座られているところを肖像画に描かせたのはどういう意味なのでしょうか?
 色々な意味が感じさせられますが、「私は、決して偉いところに立っているのではない。庶民と一緒だ。」という気持ちもおありだったのでしょうか?

『唯信鈔文意』という書物があります。
『唯信鈔文意』は、親鸞聖人が、同じ法然上人門下の先輩にあたる聖覚法印の著された『唯信鈔』について、 その題号および引証された経釈の要文に註釈を施されたものであります。
また、親鸞聖人は『唯信鈔』を尊重され、門弟にしばしばこれを熟読することを勧められています。
『唯信鈔』(『唯信鈔』は聖覚法印の著述、「文意」とはその中の要文を注釈するという意味である。) について親鸞聖人はご自身の書かれた『唯信鈔文意』の冒頭に次のように教えておられます。

*『唯信鈔文意』*
『 「唯信鈔」 というのは、 「唯」 はただこのこと一つということであり、 二つが並ぶことを嫌う言葉である。
また、 「唯」 はひとりという意味である。「信」 は疑いのない心である。
すなわちこれは真実の信心であり、 虚仮を離れている心である。
「虚」 は 「むなしい」 ということであり、 「仮」 は 「かりの」 ということである。
「虚」 は実でないことをいい、 「仮」 は真でないことをいうのである。
本願他力におまかせして自力を離れていること、 これを 「唯信」 という。
「鈔」 はすぐれていることを抜き出して集めるという言葉である。
このようなわけで「唯信鈔」 というのである。
また 「唯信」 というのは、 この他力の信心のほかに別のことは習わないということである。
すなわちこの信心は、 阿弥陀仏が広くすべてのものを救おうと誓われた本願そのものだからである。』
 
*『唯信鈔文意』*
 
 『「不簡破戒罪根深」 というのは、 「破戒」 とは、 これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、 それを破り、 捨ててしまったもののことであり、 このようなものを嫌わないというのである。
「罪根深」 というのは、 十悪(じゅうあく)・五逆(ごぎゃく)の罪を犯した悪人、 仏法を謗るものや、一闡提(いっせんだい)などの罪人のことであり、 総じて善根の少ないもの、 悪い行いの多いもの、 善い心が浅いもの、 悪い心が深いもの、 このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを 「深」 といっているのであり、 すなわち 「深」 は 「ふかい」 という言葉である。
 総じて、 善い人も、 悪い人も、 身分の高い人も、 低い人も、 無礙光仏の誓願においては、 嫌うことなく選び捨てることなく、 これらの人々をみなお導きになることを第一とし、 根本とするのである。
 他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生れると教えて下さっていることこそ、 浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。
 「総来迎」 とは、 全てのものをみな浄土へ迎えて連れて行き、 法性の都にかえらせるといっているのである。
 「但使回心多念仏」 というのは、 「但使回心」 とは、 ひとえに回心しなさいという言葉である。
 「回心」 というのは、 自力の心をあらため、 捨てることをいうのである。
 真実の浄土に生れる人には、 決して壊れることのない他力の信心が必ずおこるのであり、 このことを、 「多念仏」 というのである。
 「多」 は、 「大」 の意味であり、 「勝」 の意味であり、 「増長」 の意味である。
 「大」 は、 「おおきい」 ということである。
 「勝」 は、 「すぐれている」 ということであり、 あらゆる善にまさっているということである。
  「増長」 とは、 あらゆるものよりすぐれているということである。
 これはすなわち、 他力本願がこの上なくすぐれているからである。
 自力の心を捨てるということは、 大乗・小乗の聖人、 善人・悪人すべての凡夫、 そのような色々な人々、 さまざまなものたちが、 自分自身を是とする思いあがった心を捨て、 わが身をたよりとせず、 こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。
 それは、 具縛(ぐばく)の凡愚(ぼんぐ)・屠沽(とこ)の下類(げるい)も、 ただひとすじに、 思いはかることのできない無礙光仏の本願と、 その広く大いなる智慧の名号を信じれば、 煩悩を身にそなえたまま、 必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。
 「具縛」 とは、 あらゆる煩悩に縛られているわたしたち自身のことである。
 「煩」 は身をわずらわせるということであり、 「悩」 は心をなやませるということである。
 「屠」 は、 さまざまな生きものを殺し、 切りさばくものであり、 これはいわゆる漁猟を行うもののことである。
 「沽」 はさまざまなものを売り買いするものであり、 これは商いを行う人である。
 これらの人々を 「下類」 というのである。
 「能令瓦礫変成金」 というのは、 「能」 は 「よく」 ということであり、 「令」 は 「させる」 ということであり、 「瓦」 は 「かわら」 ということであり、 「礫」 は 「つぶて」 ということである。 「変成金」 とは、 「変成」 は 「かえてしまう」 ということであり、 「金」 は 「こがね」 ということである。
 つまり、 瓦や小石を金に変えてしまうようだとたとえられておられるのである。
 漁猟を行うものや商いを行う人など、 さまざまなものとは、 いずれもみな、 石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである。
 如来の誓願を疑いなくひとすじに信じれば、 摂取の光明の中に摂め取られて、 必ず大いなる仏のさとりを開かせてくださる。
 すなわち、 漁猟を行うものや商いを行う人などは、 石や瓦や小石などを見事に金にしてしまうように救われていくのである、 とたとえておられるのである。
 摂取の光明とは、 阿弥陀仏のお心に摂め取ってくださるから、 そのようにいうのである。 』

 長い引用となりましたが、参考文献より引用させて頂きました。
 ここで、親鸞聖人は「漁猟を行うものや商いを行う人など、 さまざまなものとは、 いずれもみな、 石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである。 」
 原文では「れうし・あき人さまざまのものは、みないし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり、」とあります。
 ここに「われら」とあります。親鸞聖人は「われら」として、「共に」という、御同朋・御同行として、私達の身近に居て下さった方だと感じられます。
 親鸞聖人の「御同朋」「御同行」という態度を、今一度、我がこととして、問いかけたいものです。
 
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆☆法語☆☆☆      
                                                 
         
 
*あなたが、知っていてくれる。     
あなたが、聞いていてくれる。   
あなたが、じっと見ていてくれる。   
 
ただそれだけで    
私は、なぐさめられ、励まされる。   
そうした「あなた」があれば幸福。  
そうした「あなた」を得られるように。  
 
そうした「あなた」となるように。     
*人は 幸せになりたいと思って   
幸せになれるのではなく、    
 
誰かを幸せにしたいと思うとき     
自らも幸せになれる。   
    
   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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