今月の・住職の法話

平成24年8月「泥の中の蓮」


今年も原爆の日が来ます。ニュースでご存知のように、アメリカからトルーマン大統領の孫が広島に来て、被爆者の話を聞いています。

とても勇気のある行為だと思います。被爆者の声に耳を傾けることから、平和を実現させるため、先ず、被爆者の声を聞くことから始める。

そのように思われておられるように私には見受けられました。

傾聴けいちょう』という言葉がありますが、

先日テレビ番組で、ある僧侶が話しておられるのを聞きました。

若い僧には、傾聴けいちょうということを学ばせているのだと話されていました。


なぜ傾聴けいちょうというものが大切なのか、

たとえば、あと半年しか生きられない方に対して、僧侶が説教しても、死んでいく人からすれば、

「私はあと半年で死んでいかなければならないのですよ。あなたはまだまだ生きれるではないですか。」

「そういうあなたが私に何を説教しようというのですか。」という反発心がどうしても起こってくる。

説教するよりも、ひたすら相手の言うことに耳を傾ける、『傾聴けいちょう』ということが必要なのです。

相手の苦悩を、ただ聞くことで、相手の苦悩を一緒に苦しむ。

相手も自分の苦悩を聞いてほしいのです。相手の苦悩を一緒に苦しむことで、相手が楽になるのです。

しかし、そのことは簡単ではありません。自分が無にならないと出来ないことです。

テレビ番組の中で、そのように話されていました。とても印象に残りました。

所詮、人間は自分が一番可愛いものではないでしょうか。

以前、ある奥さんが私に次のように、言われました。

「住職さん、人間は自分が一番可愛いものですね。」と言われました。

その夫人は、自分の主人を看病して見送り、姑を看病して見送り、舅を看病して見送り、

親戚からも、「あんなよくできた嫁さんはいない。あんないい人はいない。」と絶賛されているような人なのです。

しかし、本人自身は「人間は自分が一番可愛いものですね。」としみじみ私に言われるのです。

その方は、有難い方で、あちこち法話を聞いておられる信者です。

舅も姑も有難い方で、よく、お寺参りされ、仏法を聴聞されておられました。

浅田正作という方の『骨道を行く』という念仏詩集に、『回心えしん』という題の詩があります。


 《回心えしん》      浅田 正作

『自分が可愛いい ただそれだけのことで 生きていた

 それが 深い悲しみとなったとき ちがった世界が ひらけてきた』

という短い詩です。しかし、何か心に沁みるものがないでしょうか。

「自分が可愛いい ただ それだけのことで 生きていた」というだけならば、

特に驚くことはないと思います。誰れでも言えるでしょう。

しかし、問題は、その後の言葉です。

「それが 深い悲しみとなったとき ちがった世界が ひらけてきた」というところです。

どうして、「それが 深い悲しみとなった」のでしょうか?

それは、その人が仏さまと出遭われたからではないでしょうか。

仏さまと出遭ったから、自分のことしか考えない、恥しい私の真の姿に気付かされたのではないでしょうか。

私は、この詩のそういうところに、大変こころ惹かれるものがあります。

今、私の寺の庭には、蓮の花が咲いています。とても品があり、綺麗きれいです。

思わず、写真をたくさん撮りました。

この蓮の花を手配して下された夫人が、蓮の花を見ながら、こう言われました。

「蓮の花を見ていると、仏さまが、そこにおられるようですね。」と言われ、とても心に沁みました。

 蓮の花が咲き始めて、二日経った頃、こんなことがありました。

わたしが夢中になって、われを忘れて、庭の蓮の花の写真を撮りまくっていた時に、

寺の山門の向こうの道から、その私に気づいたご婦人が、つかつかと石段を上がり、寺の庭に入ってこられました。

そして、一緒に蓮の花の前で、蓮の花を見ながら色々な話をしました。


その婦人が言われるのに、

「蓮の花は泥の中にしか咲かないんですよ。その泥が多ければ多いほど、綺麗きれいな蓮が咲くんですよ。」と言われました。

そして、続けて、「私も色々なしがらみの中で苦しんでいるけれど、泥が多いほど   綺麗きれいな蓮が咲くということを思い、勇気づけられるような気がするのですよ。」と、一気に話されました。

私は、大変、その婦人の、その言葉に、感動し、勇気を一杯頂いた気がしました。

私は、なぜその人は、急に私の前に、現れ、聞きもしないのに、一気にそういうことを話されたのだろうと、不思議に感じました。

まるで、私に、そのことを教えたいから来たのよ、と言われているような気がしたのです。

本当に有難い出来事でした。いつまでも、この感動、頂いた勇気を忘れたくないものだと思いました。

その婦人の人生にも、色々な苦悩があるのが強く感じられました。

そういうご自身の苦悩の人生の中で、話されたので、私の胸を打たざるを得なかったのです。

また、その婦人はこう言われました。

「私は、この寺の前を通る時は、仏さまに、『仏さま、私のことをいつも見ていて下さり、有難う。』と念じて、 いつも、この寺の仏さまを心のどころにさせて頂いているのです。」と言われたのです。

名前も知らない方ですが、こうして、いつも光西寺の仏さまを心の支えにして、生きておられることに感銘を受けました。

また、同時に、この人の人生の苦悩は、とても深刻なものがあり、やりきれない気持ちを日々抱きながら、あえぐように生きている息づかいのようなものを感じざるを得ませんでした。

心に、絶えず、そういう苦悩があるが故に、余計に仏さまの慈悲の心を感じやすくなっていたのかも知れません。

そういえば、仏さまは、「蓮華座れんげざ」と言って、蓮の花の上におられます。

私の泥のような心の中におられるのだと思います。

お経に「人間には善というものは出来ない」という言葉がありました。

「人間には善というものは出来ない」とは、随分と厳しい言葉だな、

少しくらいは善はできるのではないか、などと考えたこともございますが、

日々の私の心の中は、「真っ暗」である。「真っ暗闇の暗黒」そのものが、私の心の実情ではないか。

朝から晩まで、ろくなことを考えたり、思ったりしていません。

まさに光明の差し込まない、暗闇のようなものだと感じました。

それでも、こうして仏さまの光が、泥まみれの私の心に日々、南無阿弥陀仏の名号となって働いておられるのを感じます。

今日一日、『どんな人にも、一日は二十四時間です。平等ではないか。』と言われた方がおられました。

一寸先は闇で、何が起こるかわかりませんが、今日一日、明るく生きていきましょう。

南無阿弥陀仏 合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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