光 西 寺こうさいじ の 歴 史

1、沿革

法輝山光西寺ほうきざんこうさいじは、浄土真宗本願寺派じょうどしんしゅうほんがんじはに属し、 本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらいです。
宝永元年(1704)に、はじめは西向寺さいこうじ (今の、中区大手町)にいた智境ちきょうが、己斐の帰依者きえしゃの勧めにより、 廃寺はいでらとなっていた教徳坊きょうとくぼう の跡を再興さいこうし、寺を建てたのが始まりで、現在の光西寺こうさいじに至ります。
芸藩通志げいはんつうしによると、「己斐に寺はなし、お堂が二つあり」と記録されていますが、光西寺こうさいじが己斐で最も古い寺とわれています。
寺は、旧石内道沿きゅういしうちどうそいにあって(この道は、今も昔も通学・通勤などの生活道せいかつどうで、かって寺の近くには、村役場と小学校があった) 石段の上の山門さんもん鐘楼しょうろうが目につく、お寺です。

石段を上がると、本堂があり、その正面の入口の上には、山号の篇額さんごう へんがく法輝山ほうきざん」があります。 昔、寺は、現在の位置より東側にあったのですが、いつかの時、現在地に移りました。今の寺地は、現本堂が建てられる時に、 拡張されたようで、本堂が完成したのは、明治43年4月17日です。そして、本堂の完成を祝って、山号の篇額「法輝山」が、 かけられました。

石内道・石段・山門と鐘楼・・
扁額「法輝山」 本 堂


2、光西寺の寺号じごう

文久ぶんきゅう2年(1862年)6月24日に本願寺ほんがんじの許可がおりて、 本願寺宗門ほんがんじしゅうもんとなり、明治12年(1879年)2月22日に 寺号公称じごうこうしょう光西寺こうさいじが許可されました。
現在の本堂建設は、明治43年(1910年)に、 西福寺さいふくじ(今の 中区中島→*木挽こびき町) の建物を 移築いちくしたものです。今ではすでに 100年を超える歴史をもった建物です。
*【木挽こびき町→材木町と同じくかつての材木の集散地であり、のちに住宅街となった。 旧町域のごく一部が市街地(現・中島町内)として残っている。】

昭和56年にかわらき替えがありましたが、瓦および棟瓦むねかわらは元のものを使い、施工されました。屋根の棟瓦には、 光西寺の寺名じめいがあり、その左右には、浮き彫りのりゅうがついています。

本堂の建設 本堂の落慶法要 


3、光西寺の歴代住職れきだいじゅうしょく

光西寺の歴代住職れきだいじゅうしょくは、開基かいき智境ちきょう から6代目で、光西寺の寺号が許可された時の智乗ちじょうが、光西寺の第1代目住職で 、現在は第7代目の 長上弘雅おさがみこうが でございます。
歴代住職を表にしております。

代 目 住職名 年 代
第1代智 乗
第2代大 乗
第3代顕 蔵
第4代尭 舜
第5代喜久男
第6代昭 雅
第7代弘 雅
      

4、山門と鐘楼さんもん しょうろう

 山門には、棟札があります。棟札によりますと、鐘堂門 明治44年4月 と書かれているところから、 山門と鐘楼は明治44年に建設・完成したと思われます。 前の年(明治43年)には、光西寺本堂が完成しており、本堂に引き続いて、山門・鐘楼(梵鐘)が、築造されたようです。



  
明治四拾四年四月
棟梁
寄 附 人 名
 山 田 伊三郎  檜 木 周 一  山 田 和 吉  佐久田新五郎  山 田 吾 市  脇 田 啓次郎  田 中 寅 吉  脇 田 與太郎  門 徳 松  脇 田 安太郎  川 島 夛三郎  近 藤 音次郎  堀 野 惣 二  小 出 嘉 吉




山門を入って見上げると、欄間に取り
付けられた棟札があって、寄附人名と
して、建物名称・年月・寄附人名が右
記のように記されており、欄間には、
棟梁の名前が、刻まれています。


5、原子爆弾げんしばくだんの被害

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。
光西寺の位置は、爆心地から西北方向で、直線距離は、約2,930mです。
原子爆弾の強烈な爆風により、本堂などは大きな被害を受けましたが、倒壊は免れました。
被爆後、寺には避難してきた多くの負傷者が殺到しました。また、本堂に入りきらない被爆者が寺の前の道にも あふれるといった惨状でした。
戦後、門信徒の寄進により、昭和42年(1967年)、原子爆弾の爆風で傷んでいた鐘楼は修復され、戦前に軍に供出されて無くなっていた 梵鐘が制作されました。
また、平成17年(2005年)、地域の方々の善意と広島市被爆建物等保存・継承事業の助成により、 本堂屋根の修理工事が実施され、被爆の惨禍を後世に伝えています。
光西寺の建物は、原爆を体験し生き残った被爆継承の証のひとつです。


本堂正面 「法輝山」の書



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